私たちは、どうしても、他者と比較して、自分の価値を評価してしまう。慶應に来た理由を学生たちに問えば、彼ら/彼女らは気の利いた答えを探すだろう。だが、多くの学生の本音は、「みんながいい大学だと言っているから」なのだと思う。
だが、「他者」という移ろいゆくもの、変化するものと比較し、その勝ち負けに不安を覚えるのではなく、変わらないものとの対比で、自分の絶対的な成長や変化を実感し、自分が生きてきたことの価値を確信する方法もある。
他者と比べられるもののほとんどは、数的、量的なものだ。背の高さや足の速さはもちろん、学歴、肩書き、社会的な地位もまた、偏差値や年収などの数や量を反映している。生産性と呼ばれるものはその最たるものだ。
一方、私たちが生きる社会は、質的に異なる人びとでできている。だからこそ、互いの価値を私たちは尊重しなければいけないし、他者を尊重するから自分も尊重してもらえる。相互尊重があるから、お互いの理解が深まり、社会の分断も解消できる。
自分自身の「質的な変化」を感じ、それを肯定する
自分が生きてきたことの価値を信じられない人に、他者と対等な関係を築き、相手を尊重することができるだろうか。他者と数や量を競い合い、相手を蹴落とすことで確認される私の価値、それは他者の否定から成り立っており、他者尊重とは対極にあるものだ。
私の場合、そんな自分を知るための「点」の1つが古典だった。もちろん、古典がすべてではない。自分の原体験とも呼べるような「点」があれば、それといまの自分を比べることで、自分が生きた意味、過去からの変化、成長を知ることができる。
私たちは、生きることによって多くの価値と出会い、そこから何かを学び、変化を遂げ続けていく。
あえて難解な古典に挑むのもいい。苦い過去に思いを馳せながら、あのとき、ああしておけばよかったと頭を悩ませるのもいい。自分自身の「質的な変化」を感じ取り、それを肯定することだ。それが成長するということ、それが生きるということなのだ。
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