私は桜が好きだった。ところが、雨で満開の桜が散りはじめたとき、行き交う人たちに踏みつけられた花びらを見て、なんともいえない不快な気持ちになった。
私は、舞い落ちる花びらに眼差しを向けた。すると、少しずつ芽吹きはじめていた、鮮やかな緑色の葉っぱが視界に飛び込んできた。私は、その緑に宇宙のすべてが凝縮されている気がした。葉っぱを通じて自分が宇宙とつながったような、そんな不思議な感覚だった。
桜は何十年ものあいだ、春になると、同じ場所で、同じようにツボミをつけ、花を咲かせる。
この繰り返される自然の単純なリズムに対して、私たち人間の心は絶えず変化する。だから、桜が咲き、散るという見慣れた現象が、突然、まったく違って見えるようになる。
これが心の成長なのだ、これが生きているということなのだ……若い私は世紀の大発見をしたような気持ちになり、1人で興奮していた。シュンペーターを読み返しながら、そんな昔の記憶がよみがえってきた。
古典を通じて成長の足あとを確かめる
古典を読む意味もきっと同じだ。何十年、ときに何百年も昔に書かれた古典の内容は決して変わることがない。いや、不変であるだけでなく、歴史を超える大切な視点があちこちにちりばめられているからこそ、長い期間にわたって人びとから愛され続けている。
変わらないもの、大切な視点が埋め込まれたものを読む。何度も読む。心はざわめく。だが、その「場所」は変化する。私たちは、古典を通じて自分の心の変化の軌跡、成長の足あとを確かめる。こんなところに興味を持っていたんだな、と懐かしく振り返りながら。
自分とはいかなる存在なのかを知るうえで、人生の「定点観測」が必要なのかもしれない。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら