最初に買ったのは、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』だった。ところが、当たり前だが、まったく歯が立たず、さっぱり理解できない。そこで助けを求めたのが三島憲一の『ニーチェ』という本だった。
この歳になると、古典を解説書に頼るのは邪道だと思うけれども、ニーチェの生い立ちに迫り、どのような思想を持っていたのかを何となく知ってから読み直すと、少しだけ意味がわかったような気になった。
この成功体験は大きかった。私は、それ以来、図書館から本を借りて、粘り強く古典を読むようになった。その後も何度か解説書に助けられたが、納得したり、疑問を感じたりしながら、読み進める作業はとても愉快なものだった。
そんな体験があったから、私は、学生たちに「古典を読みなさい」と言う。
ただ、自分が愉しいと思ったから、では理由にならない。なぜ古典を読まなければならないのか、自分なりに考えたが、どうにもうまく説明できない。「なぜ古典を読むのか」をテーマにした本もあるが、いくら読んでも私にはしっくりとこなかった。
年齢を重ねるごとに大事だと思う場所が違っている
そんなあるとき、依頼された原稿を書かねばならず、シュンペーターの『租税国家の危機』を読み直してみた。若いころからの私のお気に入りで、ページをめくると、何種類もの線が引かれていた。
私にはクセがあって、1度目に読んだときと2度目に読んだときでちがう線を引く。3度目、4度目であれば色を変える。年齢を重ねるごとに本は線だらけになるのだが、大事だと思う場所は違っている。これが「人間が成長する」ということなのだ。私はそう実感した。
思えば、同じような体験は、思春期のころにもあった。
早熟だった私は、成長するとはどういうことなのか、自問していた。身長は黙っていても伸びていたが、そうではなく、心が育つとはどういうことなのかを知りたいと思った。
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