道長の全盛期重なる「北宋」皇帝が日本に抱く印象 東大寺の僧侶が太宗から受けた様々な質問

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そうして国風文化が盛り上がりを見せることになったが、894年に遣唐使が廃止されてからも、中国との交流が途絶えたわけではない。むしろ、民間の海上交易は活性化している。

道長・頼通の治世と重なる「北宋時代」とは?

中国を再統一させた宋が建国されたのは、960年のこと。そこから金に滅ぼされるまでの1127年までを「北宋時代」と呼ぶ。

一方、国内に目を転じると、966年に生まれた藤原道長は、996年に左大臣にまで上り、政権を掌握。1017年に摂政と藤原氏長者を嫡男の頼通に譲っている。道長が1028年に没すると、頼通が1074年に亡くなるまで、長く権力を握り続けた。まさに、中国の北宋時代は、藤原摂関家の全盛期から院政前期までと重なることになる。

こんなエピソードがある。

平安中期における東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、三論宗と密教を学んだのち、商船に乗って983年に宋に渡った。

三国伝来の釈迦像などを持ち帰ったことで知られるが、滞在時には、北宋2代皇帝の太宗に謁見する機会まで得ている。

拝謁した席で奝然は、太宗から日本についてのさまざまな質問を受けて、それに答えた。とりわけ太宗は、皇統で連綿と続く単一の王朝が貴族制によって支えられる、という国づくりに関心を持ったという。

その背景について『江南の発展 南宋まで シリーズ中国の歴史2』 (丸橋充拓著、岩波新書)では、次のように分析されている。

「中国は直近の約百年、唐末五代の大混乱を経験していた。このころ宋は、太宗の兄、初代皇帝の太祖(趙匡胤。在位960~976)による建国から約4半世紀が経過し、五代十国最後の残存勢力だった北漢を滅ぼして(979)、本格的な天下泰平の態勢づくりにいざ始動、という局面にあったのである」

混乱期を乗り越えたものの、宋の体制がまだ盤石とはいえなかったため、日本の安定した制度から、太宗は何か取り入れようとしたのかもしれない。

もはや「日本が中国に見習う」だけの時代ではなくなったことがよく伝わってくる逸話だろう。

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