そもそも、為時は長く官職に恵まれず、花山天皇によって式部丞、六位蔵人に任ぜられた。
12年ぶりに官職を得て、さぞ張り切ったことだろうが、花山天皇は出家して退位。為時は官職を失い、またもや10年も不遇の時期を過ごすこととなった。そんななか、淡路守に任じられたのだから、激しい不満を持つのは不自然だろう。
では、なぜ任地替えがなされたのか。ちょうどこのとき、越前には70人あまりの宋人がやってきていた。状況的に、漢語に長けた為時が越前守に適任だと、いったん任地が決まったあとにそんな声が上がったのではないか……とも言われている。
唐の衰退で日本独自の文化が花開く
長く不遇だった為時の能力をまさに時代が求めたともいえそうだが、日本にとって、長く国づくりのお手本だった中国との関係が、この頃にはずいぶん変わっていた。
「日本」と号しての外交が初めて行われたのは、702年のこと。公卿の粟田真人が遣唐使として唐にわたり、大宝律令の完成を報告したとされている。
しかし、794年に平安京に遷都されてから100年後の894年、遣唐使は廃止されることになる。
もはや国力が衰えた唐に危険を冒してまでいく必要はない――。そう考えて、遣唐使の廃止を提案したのは、菅原道真だった。その判断は正しかったらしい。唐は907年に滅亡することになる。
唐の滅亡後、華北中原には5王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が、その周辺には10国(前蜀・後蜀・呉・南唐・呉越・閩・荊南・楚・南漢・北漢)が乱立。「五代十国」と呼ばれる時代が始まる。そこから実に70年にもわたる混乱期を経て、979年に中国を再統一させたのが、宋だった。
その間、日本は何をしていたか。これまでは隋や唐から仏教・儒教・律令制などさまざまなものを取り入れたが、唐の衰退によって、日本独自の文化が形成されていく。7~9世紀に中国から取り入れた「漢字」をもとにしながら、10~11世紀にかけて「仮名文字」が作られた。
仮名文字の誕生によって、日本語ならではの表現方法が磨かれた。その結果、生まれたのが、『枕草子』であり、『源氏物語』だった。
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