「不採用を一転、年金局に配属」あきらめの悪い男 年金を巡る攻防の全記録『ルポ年金官僚』より#1

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安倍は2000年に成立した「ミレニアム改正」に自民党社会部会長として携わった。「年金ブーム」の2004年改正では、官房副長官、党幹事長として保険料率などの調整役を担った。総理に就くと、社会保険庁の後継組織「日本年金機構」の名づけ親となった一方、「消えた年金記録問題」に足をすくわれ、辞任に追い込まれた。2012年にカムバックを果たし、巨額の年金積立金を扱うGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)改革にメスを入れた。

この歳の離れた二人がほぼ同時期に亡くなり、同じ増上寺で弔われたのも、年金の一つの時代の終焉を暗示しているかのようだった。

これが「本省」なのか

1960年1月6日水曜日朝、東京・霞が関の空は澄み渡り、身が引き締まる寒さである。古川貞二郎が、憧れの厚生省に初登庁するのにふさわしい天候であった。

上京したのは2日前。1月3日に佐賀を発ち、寝台急行「雲仙」で翌4日、国鉄品川駅に着いた。入省が急遽決まったため、住まいはまだ決めておらず、当面は北品川の長崎県寮に身を寄せることにしていた。

この日、古川はブロー型眼鏡をかけ、髪を七三にきっちり分け、長崎市浜町の古着屋で買ったオーバーコートでめかし込んでいた。都電品川駅から路面電車に揺られて日比谷駅で下車し、厚生省に向かう。

だが目の前に現れた建物を見て、古川は茫然とした。

これが「本省」なのか──。

国家を動かしているにしては、何とも頼りない外観であった。

現在、厚生労働省と環境省が入る中央合同庁舎5号館付近は、戦前、海軍省の敷地だった。海軍省本館は霞が関三大美建築と称えられたが、1945年5月の東京大空襲により、新館、海軍大臣官邸とともに焼失してしまう。ただし日比谷公園に面した煉瓦造りの重厚な建物は残った。終戦後、廃止された海軍省に代わって入居したのが厚生省である。

そこが手狭になり、中庭に、資料などを保管するための木造3階の建物が造られた。やがて1階に薬務局、2階に年金局が入って「仮庁舎」に。2階の床で水を撒いて掃除をしていると、1階の天井から水が滴り落ち、1階の職員が怒鳴りこんでくる……、そんなエピソードのある、当時としても安普請な建物だった。

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