「不採用を一転、年金局に配属」あきらめの悪い男 年金を巡る攻防の全記録『ルポ年金官僚』より#1
尾崎は、古川が自殺でもするのではと案じたのだ。
「その心配は全くいりません。私は来年、また厚生省を受けに来ますが、国家試験に受かるかどうかわかりませんので、今年ぜひ採用してください」
古川はそう言い残し、厚生省を後にした。
やれるだけのことをやった、と古川は夕方、東京観光でもしようと考えた。東京駅から「はとバス」に乗ろうとする時、友人が走り寄ってきた。携帯電話のない時代、東京在住のその友人宅を古川は連絡先にしていた。
「厚生省から内定の連絡があったぞ」
古川は「逃げない、あきらめない、道は開ける」との信念を得たと、私の取材に振り返ったが、いまなら到底ありえない。「戦後」が色濃く残る混乱期で、霞が関も「何でもあり」の懐の深い時代だったということだろう。
岸信介と国民年金
不採用を一転させたのは誰か、当の古川もわからずじまいだ。ただ後に聞いたところでは、目をつけたのは年金局長・小山進次郎のようだった。小山の前職は国民年金準備委員会事務局長で、尾崎はその事務局次長を務めている。尾崎が、あまりに熱い想いを持った新人の存在を小山に伝え、小山の判断で預かろうと考えたのかもしれない。
入省は通常なら1960年4月1日付だ。「入省が急遽決まった」と書いたのは、小山の指示で、同期で一人だけ1月1日付に前倒しされ、年金局に配属されたからである。
年金局が、新人の手も借りたかったのは、前年1959年4月に国民年金法案が成立し、1961年4月、国民皆年金制度が本格的に実施されるためだ。
日本の公的年金制度は1941年、一般労働者向けに広げた労働者年金保険法をもって始まりとされる。対象は男性だけだったが、1944年に女性も加入できるよう法改正された。同時に「労働者」という表現が社会主義思想を連想させるとして「厚生年金保険法」に名称変更され、いまに至っている。
1954年、55歳だった男性の支給開始年齢を20年かけて段階的に60歳に引き上げるといった、厚生年金保険法の大改正が行われた。この時点で、年金加入者は全就業者の4分の1にとどまっていた。零細企業の社員や、農民、自営業者は厚生年金に加入できないのだ。当然、「4分の3」の老後保障を求める声が上がってきた。