『風立ちぬ』は、宮崎駿によって映画化もされた文学作品で(宮崎の作品では堀越二郎の半生を合わせたような形で創作された)、主人公が田舎の結核患者の隔離施設であるサナトリウムを訪れて、そこで少女と出会う話である。
本作は、肺結核を病んだ堀自身の体験をもとに執筆された作品で、ヒロインである節子のモデルは、夭逝した堀の婚約者・矢野綾子である。
実際、『風立ちぬ』のヒロインも、最後には結核で亡くなってしまう。
「日本は、堀辰雄が用意したこのフォーマットにのっとって、何度も創作を繰り返してきました。起源については『風立ちぬ』以外にも諸説ありますが、ブルーライト文芸は現代版のサナトリウム文学であると言えるかもしれません」
ブルーライト文芸と日本文学の共通点
ブルーライト文芸には、他の日本文学の作品との共通点もあるという。
「2022年に映画化もされた宇山佳佑『桜のような僕の恋人』の最後では、ヒロインが消えてしまったのに、去年より桜がより美しく、儚く見えるということが描かれていますが、こうした感性は、梶井基次郎の『桜の樹の下には』と一緒なんです」
堀と同じく、梶井も肺結核を患い、31歳の若さで没した作家だ。治療法がまだ発見されていなかった当時は、言うまでもなく『不治の病』だった。
「この作品では、目の前の桜がこんなにも綺麗なのはその下に屍体が埋まっているからだ、と主人公が自分の中で納得のいく説明をしている。
ここで重要なのは、屍体が埋まっている”のに”綺麗なのではなく、屍体が埋まっている”から”綺麗なのだ、と結論を転倒させている点です。
つまり、ある条件下においては、ヒロインの消失や不治の病という切なく悲しい負の要素が、世界をより輝かせてしまう。そういった負から正へのダイナミズムが、「エモさ」のコアでもあると思います。
その題材として桜が使われているのも面白い。そういえば、『君の膵臓をたべたい』の表紙は桜が使われていますし、ヒロインの名前も『さくら(桜良)』ですよね」
儚いものの象徴として「桜」が使われることは、日本文化の常套手段である。その系譜にもブルーライト文芸は位置づけられるのかもしれない。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら