澤木さんは石油運送会社で職場結婚をした高卒の父親と母親のもと、福岡県福岡市に生まれました。2歳からは山口県の小野田市(現・山陽小野田市)に引っ越し、小学2年生からは東京の大田区に移って、中学2年生で、ふたたび福岡に帰ってくるという転勤族でした。
小学校のときの成績は中の上で決して悪くはありませんでしたが、どうしても一族から大卒者を出したかった彼の父親は、最高学年となった彼に“特別講義”を実施します。
「6年生の最後のほうになってから、親父に『ちょっと座れ』と言われて、2時間くらい話を聞かされたんです。日本社会は大卒者が出世してお金を稼ぐ仕組みだから、いい大学に行けという内容でした。私はそれまで勉強をほとんどしたことがなかったのですが、その言葉が響いて、参考書を買ってやりこむようになりました」
父親の講義で「スイッチが入った」と語る彼の中学1年生のときの成績は、猛勉強の甲斐もあって学年1〜3番。当時東京で受けた模試では偏差値が71だったそうです。しかし、中学2年生で福岡に戻ってからは、成績が下がってしまいました。
「東京と福岡で、授業の進み度合がちがい、中学時代に一度も日本地理を習えなかったんです。模試で地理が出ると当てずっぽうで解答したので、71だった偏差値は、2年生の終わりには59まで下がりました」
それでも、この逆境に気合いが入った澤木さんは、地理を克服しようと、いろんな参考書を買ってひたすらやりこみます。その結果、何もわからなかった地理は入試の得点源にまでなりました。
「気がついたら朝まで勉強していたこともあった」と語るほど猛然と勉強していた彼は、高校受験で第1志望であった福岡の名門・修猷館高等学校に無事合格します。
しかし、ここから彼は劣等生へと転がり落ちてしまいました。
成績4番から480番に転落
福岡有数の進学校の入試を「最高にうまくいった」と語る彼は、4位の成績で入学。しかし、のちにキャプテンになるほどサッカー部の活動に打ち込んだ彼は、まったく勉強をしなくなりました。
「高校時代は部活と、麻雀と、彼女で忙しかったです(笑)。夏休み前の成績は学年で10番の科目もあったのですが、中学受験の貯金がなくなっていって、だんだん成績が落ちていきました。親が先生に呼び出されて『おたくのお子さんは4番で受かったのに、今は(最下位の)480番だけどどうなってるんだ』と言われたこともありましたね。完全に勉強に興味がなくなってしまったんです」
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