原子力研究の落日、使命を見失った学者たち--象牙の塔の「罪と罰」

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中でも推進派の急先鋒が東大だ。現在の原子力委員会委員5人のうち、近藤駿介委員長をはじめとする3人は同大の原子力工学科出身。1950年代半ばの黎明期以降、国と東大が二人三脚で推進してきたのが、日本の原子力行政の歴史だ。それだけに、原発批判を断じて許さない風土が築かれてきた。

前述の安斎名誉教授は60年に創設された東大原子力工学科の第1期生。72年の日本学術会議のシンポジウムにおいて、国の原子力行政に批判的な基調講演を行うなど、東大にあって異端の言説を展開してきた。その結果、原子力工学科を追われ、助手として拾われた同大の医学部でも執拗な嫌がらせを受けた。

「研究室では『安斎と口を利くな』と通達が出され、他大学の共同研究者が打ち合わせに来ると、同僚の助手が『勝手に入るな』と追い払う。隣の席には東京電力の社員が張り付いていて、私がどんな活動をしているか、どんな電話がかかってきたかを、逐一会社に報告していた」(安斎氏)。

75年の原子力工学科設立15周年記念パーティでは、あいさつに登壇した教授が、「安斎育郎を輩出したことだけは汚点」とわざわざ触れたほど、目の敵にされた。異分子を排斥し、批判的な論理を封殺してきたのが、東大の原子力工学科だった。

04年には学科数がゼロに、凋落した原子力研究

原子力研究は今や凋落傾向にある。最先端のエネルギー研究というイメージをまとい、花形の学科だったのは70年代まで。86年のチェルノブイリ原発事故や99年の東海村JCO臨界事故により、学生の原子力離れが急速に進んだ。

 文部科学省の調べでは、「原子力」の名を冠する学科、研究科の在学生数は減少。2007年度の学部生は全国でわずか100人と、ピークだった94年度の17分の1にまで急減している。

 

 

 

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