目黒駅付近も目黒川沿いに線路を敷いたのでは遠回りになるため、白金台をストレートに横切るルートが取られた。目黒村が鉄道を忌避し反対運動を行ったという説は、裏付ける文献がなく都市伝説の域を出ない。
開業当時は1872年に日本で初めての本格的な鉄道が開業してからすでに10年以上。いつでも汽車見物に出かけられるような場所にある東京近郊の村が、鉄道の絶大な経済的効果を知らないはずがないと考えるほうが自然だ。
国策による鉄道だったからこそ、むしろ買収しにくい集落近くを避け、地元の意向など無視して、早期完成を目指したとしてもおかしくはない。
江戸時代の感覚では「駅近」
今日、目黒駅の所在地は品川区上大崎で、目黒区ではない点が豆知識としてよく披瀝される。目黒村の隣の上大崎村の村域に建設され、そのまま現在まで引き継がれているのだ。
初期の鉄道駅は山手線に限らず、必ずしも駅名と同名の集落に近接した位置に設けられたとは限らなかった。そのあたりも現代の感覚とは違う。原宿、新宿、高田馬場、大塚といった駅も、駅名の由来からかなり離れた場所に設けられたのは、これまで紹介してきたとおり。
江戸時代の感覚が残っていた時代は1里(4km)やそこらまでは十分に徒歩圏内。「駅前のうち」だったのだろう。目黒駅は、たまたま行政区の境が間に引かれたせいで話題となるだけで、目黒村の中心を流れる目黒川沿いまでは、急な坂道ではあるが歩いて十数分。むしろ、昔からの集落に近いとすら言える。
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