現在の山手線の前身である日本鉄道品川線(品川―赤羽間)は1885年3月1日に開業した。同時に営業を開始した駅は渋谷、新宿、板橋だけで、2週間遅れた同年3月15日に目黒と目白が追加された。
その次の品川線の新駅は1901年開業の大崎、恵比寿(貨物駅)と16年も間が空く。現在のように多くの駅が設けられたのは、国有化後、1909年に電化され電車運転が始まってからだ。
当初、駅が少なかったのは、沿線が武蔵野台地上の人口希薄地帯であった事情もあるが、根本的な理由は、品川線が上野―熊谷(―前橋)間の日本鉄道と、新橋―横浜間の官設鉄道の連絡を主目的として建設されたためである。開業初日の渋谷駅の乗降客が皆無だったような例もあり、沿線住民の輸送はほぼ眼中になかっただろう。
そもそも黎明期の鉄道は庶民の収入と比較して運賃が非常に高額だった。1894年に創刊された『汽車汽船旅行案内』によると、新橋―目黒間の運賃は6銭(現在は180円)。1890年代の公務員の初任給が10円ほどとされるから、1円は今の約2万円ほどか。6銭は換算すると1200円。今のように気軽に隣の駅までといった利用は考えづらかったのだ。
ちなみに当時の品川線の旅客列車は9往復だった。そうした歴史的経緯を考慮しないと現状を見誤る。
目黒駅付近のルート
品川線最大の使命は、明治初期の日本のもっとも重要な輸出品であった絹糸を、富岡製糸場に代表される生産地の群馬県から横浜港まで運ぶこと。国策に沿った鉄道なのである。それゆえ、品川―赤羽間を極力、直線かつ急勾配ができないよう建設されている。
起伏が激しい丘陵地を横切ることになったが、費用には糸目をつけず、築堤(恵比寿―渋谷間や高田馬場―目白間など)や切り通し(目白駅付近など)を駆使して、蒸気機関車の大敵である勾配を最大10パーミルに抑えた。
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