谷:私が吉本興業に入社したのは1981年です。当時、関西ではダウンタウンがデビューして活躍していましたが、その後、東京に出てしまって。1980年代の終わりには、大阪でも漫才は忘れられ、一部のファンだけが見ていたような存在になりました。
楠木:当時の漫才の状況を振り返ると、テレビで漫才番組がほとんどなくなり、漫才師もバラエティ番組のレギュラーがやりたい仕事になっていたと。漫才は一部の人向けに劇場や営業先でやるものになっていたのですね。
谷:それまで私は、芸人さんのマネージャーやテレビ番組制作などの仕事をしてきましたが、その頃は僕らもそういう捉え方をしていました。漫才師が漫才に力を入れずに、目指しているのは、テレビに出たり、レギュラー番組、もっと言うと、自分の名前のついた冠番組を持つこと。漫才はその足掛かりとして、本格的にタレントとして売れるのが目標なのかなと。
漫才が落語と同じ道をたどった可能性
楠木:漫才は確立されたお笑いのジャンルだと思いますが、もしかすると、今の落語のような成り行きになったかもしれないということですね。つまり、芸として深くて、なくなるものではないけれど、一部の本当に好きな人だけが劇場に観にいく。
谷:そうですね。特に関西の落語では1970年代に笑福亭仁鶴さん、月亭可朝さん、桂三枝さんなど活躍していましたが、それ以降は長期低迷していました。漫才もそれに近い状態になるのかなと。もっとも落語の場合は、古典落語があるので、一定数の根強いファンがいて廃れないだろうとは思っていました。
楠木:落語は1人でできますしね。
谷:落語家は売れてなくても、食えると言われていました。街中で演じれば、たとえギャラが5万円でも全部自分に入ってくる。漫才は2人で分けないといけない。だから、漫才師は食うのが大変なのです。