渋谷がもはや「若者の街」じゃなくなった深い理由 むしろ「若者が集う場所」はつねに変遷してきた

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東京大学名誉教授で社会学者の吉見俊哉は、『都市のドラマトゥルギー』という著作の中で若者たちが集まる「盛り場」、いわば「若者の街」の変遷について語っている。同書では、戦前は浅草から銀座へ、戦後は新宿から渋谷へと盛り場が移り変わってきたことが指摘されている。

現在の浅草や銀座から、そこが「若者の街」であった面影を探すのは難しいかもしれない。しかし、1910年代の浅草六区はハイカラな映画館が立ち並び、多くの若者がこぞって向かう場所だったし、1920年代の銀座は、いわゆる「モガ(モダン・ガール)」「モボ(モダン・ボーイ)」たちが集う街だった。

とはいえ、そこから若者がいなくなったとしても、その街自体の特徴が消えるわけではない。銀座にせよ浅草にせよ、それらの街は東京の都市の中で独特のポジションを持っている。浅草なら、東京スカイツリーと合わせて来日観光客向けの街としての側面が強いし、銀座は、海外ブランドの1号店がしばしば出店することによって「一流品が集う街」としてのイメージがある。

もしも街に1つの「人生」のようなものがあるのだとしたら、銀座や浅草はかつて「若者の街」としての姿を経験し、現在はそこから成長して円熟した街になったといえるかもしれない。そのように「街」が変化していくことは当然のことである以上、当然「若者の街」も同じであり続けるはずはない。

そうした街の人生を大きく左右するのが、社会情勢や災害などの外的要因だ。例えば、浅草から銀座へと盛り場が移り変わってきた要因には、1923年に発生した関東大震災の影響が大きい。当時、浅草のシンボルマーク的存在だった凌雲閣という12階建ての塔が崩壊し、そこから震災復興の時期を経て、盛り場は銀座へ移っていく。

さまざまな要因が相互に作用しながら、街は変遷し、その人生をたどっていく。

若者の街「渋谷」の誕生

では、渋谷という街はどのような人生をたどってきたのだろうか。

渋谷が大きく変化したのは、1970年代である。もともと、戦前から東急グループが東横百貨店を作り、渋谷の開発に力を入れていたが、思うように開発が進まなかった。というのも、渋谷の隣にある新宿が若者の街として人気だったからである。

1960年代、若者の街といえば新宿だった。しかし1968年に発生した新左翼による暴動事件・新宿騒擾(そうじょう)事件、そして西口広場を占拠して行われた「新宿西口フォークゲリラ」以後、学生運動の沈静化と共に新宿自体が「若者の街」としての姿を失っていく。おりしも1971年には京王プラザホテルが誕生し、新宿西口には高層ビルが次々と建てられ、オフィス街としての姿が強くなっていく。

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