渋谷がもはや「若者の街」じゃなくなった深い理由 むしろ「若者が集う場所」はつねに変遷してきた
そんな中、1973年に西武百貨店などの流通部門を担ったセゾングループが「渋谷パルコ」を作ったことから、渋谷は若者たちに注目される街になっていく。セゾングループは糸井重里などを用いた巧みな広告戦略によって、当時の消費文化の最先端を切り開いていった。渋谷は一躍最先端の文化が集まる街となり、若者たちがそこに集うようになる。
また、1990年代前半には、女子高生のギャル、通称「コギャル」が渋谷センター街や東急の商業ビル「109」に集まるようになる。コギャルたちは渋谷センター街を歩きながらそのスタイルを道ゆく人々に見せ、ストリートカルチャーの一環として彼女たちのファッションが全国に広まっていく。
加えて、数々の文化的なコンテンツを供給する施設が渋谷に集中していたことも見逃せない。例えば、渋谷には数多くのレコードショップなども立ち並んでいたが、1995年には現在の「タワーレコード 渋谷店」が誕生している。1500坪を超える売り場面積と、在庫枚数70万枚という在庫枚数で世界最大規模のカルチャーストアとなった。1999年には「TSUTAYA」がスクランブル交差点に面する位置に誕生した(ちなみに、現在は一時閉店し、2024年にリニューアルされる)。
このTSUTAYAは数々の貴重なVHSをレンタルできる場所としても知られ、日本における映像文化を陰で支え続けた存在でもある。筆者の周りでも、「サブスクに目当ての作品がないときは、渋谷のTSUTAYAに行け」と言う映像クリエイターたちがいた。
渋谷という街の人生を大きく変えたのは、やはりセゾングループによる渋谷の開発だろう。それによって渋谷には「若者の街」というイメージが根付き、以後さまざまなユースカルチャーがそこで生まれてきた。
「渋谷」から若者が消えた理由
こうした若者の街としての渋谷の姿に変化が起こったのが、2010年代だ。ここには2つの理由がある。1つは若者の文化の中心が、ネット上に移り変わってきたこと。2つ目は、渋谷という街自体が変化してきたことだ。
1つ目だが、2000年代後半に、メジャーなSNSがほとんどその姿を現す。2007年にはYouTubeの日本版がサービスが開始し、2008年にTwitterとFacebookの日本語版サービスが開始する。また、それより少し後の2014年にはInstagramの日本語版サービスが始まる。そして、なにより2000年代後半からスマートフォンの急速な普及が始まる。
こうしたSNS、ネットの急速な発展を通して、そもそもリアルな街という場所に若者を惹きつける要因がなくなってしまった。かつては実際に会わなければコミュニケーションができないがために、街が必要だったのが、そもそもデバイス上でコミュニケーションが完結してしまうのである。そうなると、必然的に渋谷という街のポジションは低下する。
筆者が以前、教職をしていたとき、高校生に「最近、みんなはどこで遊ぶの?」と聞いてみたことがある。すると「遊びに行かない。オンラインゲームで友達と遊んでいる」と言われて驚いた。もちろんこれは私の個人的な体験に過ぎないが、かつてよりも家の中で友人たちとつながる機会が増えているのは間違いない。
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