高橋源一郎「歎異抄」の生きる知恵を今のことばに 「歎異抄」は親鸞の「君たちはどう生きるか」だ

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翻訳の意味とは何か。高橋さんは、<いま現在を生きる人びとの切実な問題に変換してみせる>こと、と考えている。『PLUTO』であれば、60年前のロボットの悲劇をAIという最新技術と共存していく現代社会に、全米ヒットとなった『ゴジラ−1.0』は、戦争のトラウマを持つ帰還兵の葛藤が現代的なテーマとして捉えられたことだろう。では700年も前の宗教書である『歎異抄』の場合はどうか。

「『歎異抄』の書かれた時代は、今から700年も前の戦乱と飢餓と天災という大変な世の中です。そんな大昔の話と思いがちですが、今だって戦争と紛争、そして災害の時代ですよね。だからこそ、その先を見通すような思考が必要なのですが、今の作家は、その瞬間に面白いと思われるようなものを求められ、書くそばから消費される運命にあります。それでは、その先を見通すような思考は生まれません。

『歎異抄』には、時代を超えた普遍的な人間の智慧が書かれている、と語る高橋源一郎氏(写真:朝日新聞出版写真映像部・上田泰世)

この10年間、『歎異抄』を繰り返し読んできましたが、読めば読むほど夢中になりました。ぼくは親鸞を宗教家というよりもことばの人、つまり作家に近い人だったと思っています。人間がことばを使ってコミュニケーションする生きものである以上、宗教も政治も文学もこれを避けては通れない。

親鸞のことばは700年たった今も古びずに生きていて、『歎異抄』には生きるための知恵が書かれていると思います。だからこそ『歎異抄』が700年前の宗教の本、という枠の中に閉じ込められているのは、あまりにももったいないと思いました」

まるでわたしのために書かれているようだ

<太宰治(ダザイオサム)という作家がいる。この国の作家の中でもとりわけて人気がある。もしかしたら、いちばん人気がある作家かもしれない。もちろんぼくも大好きだ。/ダザイオサムが好きだという読者に、その理由を訊ねると、こんな答えが返ってくることが多い。(略)/「彼の作品を読んでいると、まるでわたしのために書かれた作品のような気がしてくるんです。(略)/読者のみなさんはもう気づかれていることだろう。ここでも「シンラン」に起こったことが繰り返されているのだ>(『一億三千万人のための「歎異抄」』より)

太宰治を読んでいると、まるで自分ひとりのために書かれているような気がする、と高橋さんは言う。それと同じように、『歎異抄』を読んでいると、まるで自分ひとりのために、あるいは、親鸞が直接自分に向かって語りかけているように、書かれている。そんな気がするはずだとも。

ただし、そのためには、『歎異抄』のことばを太宰治のことばのように、いまのことばにする必要があるかもしれない。『歎異抄』を、700年前の人のように読むために、古いことばという「壁」を壊す必要がある。だから、翻訳するときに、古くなってしまった、少しわかりにくいことばを今のことばに、今なら親鸞はこういうだろうなというふうに、少しだけ変えることにしました。読者が置いてきぼりにされないように、と高橋さんは言った。

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