日米の政治経済を繋いだ、ある米国人の半生 慶應大学ジム・フォスター教授に聞く(前編)

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桑島:ちょうど貿易摩擦が激しかった頃ですね。

フォスター:そう、貿易摩擦が真っ盛りの時代ですね。大使館では、国内政治を担当しました。私の持論は、もちろん経済問題は経済問題だけれども、政治的な観点からソリューションを模索しないと何も決定できないということです。農作物の問題も、建設交渉の問題も、政府調達の問題も、半導体問題も、構造的な問題をマネージしないと、いきなり解決はできません。

貿易摩擦も中長期の時間軸でマネージできれば、米国経済と日本経済は均衡して解決策が出てくるだろうと思っていました。そして実際そうでしたね。

桑島:そして1990年代に、もう1度、日本に帰って来られた。

フォスター:そうですね。私はフィリピンのマニラに行って、それからまたアマコスト大使の依頼で帰って来て彼の補佐官になり、その後は政治部に1年間いて、それからモンデール大使の依頼で経済参事官になったのです。その4年間を日本で過ごしました。

その後はワシントンに帰って、国務省の仕事を続けるか続けないか迷っていましたが、一度、ヨーロッパで仕事をしたかったので、2年間EU(欧州連合)デスクの副部長をやりました。それからスタンレー・ラウスが国務次官補代理になった。彼は私の古い友達なので、彼の依頼で補佐官になりました。それでフォーリー大使が任命されて、彼の依頼で日本の政務担当公使になり、また3年間日本にいました。

桑島:それが2000年代ですね。

マイクロソフトで期待されていたこと

フォスター:そうです。それから米国へ帰って、私が前から希望していたEUの首席公使になったのです。その後、日本に戻ったら、北東アジアビュローの依頼で、六者協議の担当になりました。それを最後の仕事として2006年に国務省を辞めることになった。結局、国務省にいたのは25年間です。そのうち日本にいたのは合計11年間ですね。

桑島:その後は日本マイクロソフトに移られて、ある意味、パブリックアフェアーズという昔の仕事に戻ったことになりますね。

フォスター:まったくそのとおりですね。そういう意味で、パブリック・リレーションズ・ファームでの経験が役立っています。何かを文書で伝えるときは、できるだけ短く明確に書く。最初に結論を1パラグラフで書いて、次に自分がどうしてこの結論にしたのか、理由を1、2、3と説明する。それで最後のパラグラフはアクションプランで締める。またできるだけ1ページに収めること。2ページは長すぎる。半ページは短すぎる。ちょうど1ページ。国務省でも、いつもこれを自分の部下に伝えていました。

桑島:とても実用的ですね。日本マイクロソフトには2006年から2011年まで5年間在籍されていましたが、どういったお仕事をされていたのですか。

フォスター:私は政策担当の執行役員で、法務政策統括本部長でもありました。どうして私が雇われたかというと、マイクロソフトが日本における市場アクセスの問題や、通商問題に取り組むにあたり、日本政府に働きかけて、僕の経験とネットワークに基づいて解決することを期待されていたからです。

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