日米の政治経済を繋いだ、ある米国人の半生 慶應大学ジム・フォスター教授に聞く(前編)

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フォスター:もともと大学の教師になる予定で博士課程に進んだのですが、私の専門は政治学ですので、自分で実際に政治を体験しないと、いい授業はできないと思いました。それで大学で教える前に、少しの間だけワシントンD.C.で仕事をすることにして、当時の民主党系の最大のパブリック・リレーションズ・ファームだったDaniel J. Edelmanに入りました。

私は2年間そこで働きましたが、これは非常に大切な経験でした。なぜかというと、大学で政策は勉強したけれど、その政策をいろいろなオーディエンスにどうやって伝えたらいいのか、重要なポイントは何かがよくわからなかった。

今でもよく覚えているのは、「情報は早く伝えなければならない」と教わったことです。そのときのわれわれの重要なクライアントのひとつは、トヨタでした。自動車輸出の自主規制の問題があったからです。

桑島:日米貿易摩擦が起きていた、1980年代半ばぐらいですね。

大手PR会社から国務省へ

フォスター:そうそう。私は入社したばかりでしたが、私の仕事のひとつに、下院や上院の公聴会やシンクタンクのミーティングに出席して、そこで得た情報をレポートにまとめるというものがありました。

トヨタの本社がある名古屋とワシントンは、ちょうど12時間の時差があります。名古屋で朝8時になったら、みんなその前日にワシントンで何があったのか知りたがる。だから私は公聴会から帰ってきたら、その日の夜8時までにレポートを書かないといけない。大学院ではレポートを書こうと思ったら、1カ月、2カ月でやればよかったのに。

そんなある日、僕は下院の公聴会からオフィスに帰ってきて、大判のイエローパッド(メモ帳)に手書きでレポートを書こうとしたのです。すると上司に「ジム、あなたはタイプができないのか」と笑われました。

当時のタイプライターは、今のパソコンと違って修正ができない。文章がまだちゃんと練れていないのに途中でタイプすると、後からテキストを直すのがすごく大変だから、先に下書きをしておきたかったのです。でもそれでは間に合わないのですね。つまり仕事のペースが全然違う。情報はタイムリーでないとダメです。ステーキと同じように、冷めてからテーブルの上に置いても、あまりおいしくないですね。

それでパブリック・リレーションズ・ファームに長く勤めるつもりはなかったので、試験を受けて国務省に入りました。国務省で5~6年働いたら大学に戻ろうかなと思っていたのですが、すぐに韓国に派遣され、入省3年目に外交官として日本に行くチャンスがありました。もう少しこのままやっていこうと思って、それからフィリピンに行って、また日本に来るチャンスがあったので、今度は4年間いました。

桑島:じゃあ、最初に日本にいらしたのは?

フォスター:1985年から1989年です。

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