地図にない?埼玉「見沼たんぼ」江戸から続く理由 多くの開発計画を乗り越え「江戸の景色」残った
北原さんは地面を指さし証言した。「1988年に5期目を目指す知事選があってね。当時、そこにビール瓶の箱を持ってきて畑知事さんが演説したんです。『この斜面林を保全します』と。見沼たんぼの保全に力を入れる住民の5万票が、対抗馬に流れてしまえば危ないと必死だったのでしょう」。
保全第1号地のそばを流れる見沼代用水は「土の水路の原形」のまま維持されている。これも、住民団体が声を挙げた成果という。
北原さんの説明が続いた。「斜面林の保全を求める運動に続き、歴史的な遺構である代用水を残そうという住民運動が盛り上がりました。ところが当初、県の農林部はかたくなでした。川の両岸と底をコンクリートで固める3面コンクリート護岸工事は水資源公団とともに行っている国策であり、進めるしかないというわけです」。
「しかし畑元知事が、三面張り工事を認めなかったんです。文化財や歴史遺構の保全には深い関心を寄せていましたから」
当時、北原さんは埼玉県庁職員で40代。その頃、見沼たんぼにゴルフ場を作る計画があり、県庁内の開発支持派がゴルフ好きの畑元知事に働きかけていたという。北原さんは1984~1986年に地域政策課職員として見沼たんぼを担当。見沼たんぼ内でのゴルフ場開発は農水省の農地転用許可が出ないことを熟知していた。
「田んぼダム」の先駆け
『環境保護の市民政治学 見沼田んぼからの緑のメッセージ』という本がある。1990年11月、第一書林から出版された。著者はかつて「見沼田んぼを愛する会」「見沼田圃保全市民連絡会」の中心人物だった村上明夫氏だ。
この本によると、1958年9月の狩野川台風により、埼玉県川口市は市街地の大半が数日間にわたって水没。浸水深は最大2mだった。著者は川口市生まれで当時高校一年生。家は床上浸水し、腰の高さまで水が来た。
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