地図にない?埼玉「見沼たんぼ」江戸から続く理由 多くの開発計画を乗り越え「江戸の景色」残った

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その後、八代将軍の徳川吉宗はさらに新田開発を進めた。紀州(今の和歌山県)から召し出された井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)が見沼溜井を干拓し、代わりの水源として、約60kmも離れた利根川から取水する「見沼代用水」を開削した。代用水の水を田んぼに引き入れ、芝川に排水するシステムができた。

東浦和駅の前にある龍神の石像(撮影:河野博子)

東浦和駅前で北原さん、山口さんと落ち合った。北原さんによる見沼たんぼの説明は「もともと一帯は湿地や沼だった」から始まった。このあたりには、水の神様・龍神への信仰があったという。駅前には龍神の像がある。さいたま市のPRキャラクター「ヌゥ」も龍神の子孫という設定だ。

見沼たんぼは、さいたま市、川口市の2市にまたがり、面積は1257ヘクタール。北原さんの車に乗せてもらい、主な見どころに連れて行ってもらった。

「さいたま緑のトラスト基金」による保全第1号地と見沼代用水原形保全区間のそばで、北原さんの説明に熱がこもった。

「約40年前に住民たちは『見沼田んぼを愛する会』を作り、旧浦和市による市営霊園開発計画に対する反対運動をやりました。その後、『見沼田圃市民保全連絡会』もできました。愛する会、連絡会の中心人物はこの近くに住んでいる元県議会議員です」

保全運動で江戸以来の風景が維持された

埼玉県やさいたま市の資料で「東京の都心から20~30km圏にある大規模緑地空間」と紹介される見沼たんぼ。住民による保全運動があったからこそ、維持されてきたらしい。

旧浦和市は霊園開発計画をあきらめ、1990~1991年に開発予定地の約1ヘクタールの斜面林は県が中心になって設立した、さいたま緑のトラスト基金による保全第1号地となった。用地取得の7億円余の3分の2は県が出し、3分の1は旧浦和市が出した。

畑和元知事(1972年7月~1992年7月、5期にわたり埼玉県知事)に自然環境保全に対する先見の明があったということだろうか。そうとも言えないようだ。

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