松浦弥太郎がエッセイで書かないと決めている事 どのように書くとエッセイはおもしろくなるのか
そして、向田邦子さんの下の妹さんが、甲府へ疎開したときのこと。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい」
と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。
(『新装版 眠る盃』所収、講談社)
はじめは大きなマルが書かれて届いた葉書でしたが、次第にマルが小さくなり、そしてバツになり、ついにバツの葉書もこなくなります。そして身体を壊した妹をお母さんが迎えに行くことになりました。
「帰ってきたよ!」
と叫んだ。茶の間に坐っていた父は、裸足でおもてに飛び出した。防火用水桶の前で、痩せた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。(同)
「お父さんは子どもを深く愛していたから、あんなに泣いたのだ」とは書かれてはいません。でも、向田邦子さんが書きたかった「ひとつ」が伝わってきませんか。ひとつだけだから、強烈に伝わってくるのです。
もしここに戦争の悲惨さや理不尽さ、疎開していない自分たちの生活の不自由さといったほかの話が入り込んできたら、きっとぼやけたエッセイになってしまっていたでしょう。
あなたが選んだその「ひとつ」こそが個性
とくにインターネット上に文章を書くと字数制限がありませんから「あれもこれも」になりがちです。
しかし、「せっかくだから入れてしまおう」は、読み手にとってじゃまな文章であることが多い。「自分はいま、この『ひとつ』について書きたいんだ」とたしかめてからキーボードに指をおろしましょう。
エッセイとは、情報ではありません。秘密を語った告白文です。
「あれもこれも」ではなく、ひとつに絞る。広さではなく深さを目指すことです。
あなたが選んだその「ひとつ」こそが個性であり、「視点」であり、そのエッセイのおもしろさのです。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら