松浦弥太郎がエッセイで書かないと決めている事 どのように書くとエッセイはおもしろくなるのか
自分がとくに詳しいジャンルは、エッセイのテーマには向いていません。
誰も知らないであろう自分だけが知っているようなことはつい教えたくなるし、いいエッセイが書けるような気がしてしまうものですが、ぐっとがまんします。
なぜかというと、「わかっている人が、わかっていることを書いている文章」はとてもつまらないからです。
「自分がよく知っていること」は、すでに自分は答えがわかっているということです。なにがすごいのか、どんな魅力があるのか、そもそもどういうものなのかといった「秘密」がわかりきっている。
そこまで到達できたことはすばらしいのですが、エッセイストとしてはあたらしい発見がないまま書くということになります。たとえば「器のお店が教えるいいお皿の選び方」のように、自分にとって自明のことを紹介する「情報」や「説明」になってしまう。
エッセイとは、いわば感動のレポートです。自分が見つけた発見に自分で感動して、それをレポートして伝えるもの。「わかった!」までのプロセスがあるからこそ、いいエッセイは書けるのです。
「これについてはもっと詳しくなるまで書いちゃいけない」と考える人が多いのですが、じつはまったくの反対なんですね。
むしろ、「詳しくなるまでの途中」こそがエッセイの宝庫です。
「詳しい」と言えることはうまく書けない
僕自身、クラシックカーやギター、本など「詳しい」と言えることはいくつかあります。でもそういうものについては、ふしぎなほどうまく書けません。書くことが決まりすぎていて、論文のようにかたくなってしまうのです。
それはやはり、その対象について知り尽くしてしまってあたらしい感動がないまま書くからですね。感動がないと、説明になる。せっかちで、味気ない文章になります。
マラソンについてエッセイを書いたこともありますが(『それからの僕にはマラソンがあった』筑摩書房)、あれは走りはじめのころだったから書けた気がします。いま走ることについてあのようなおもしろいエッセイが書けるのか、ちょっと自信がありません。
だからもし「ギターについてエッセイを書いてください」と依頼されたら、断るか、ギターそのものではなく「ギターにまつわるエピソード」を書くでしょう。
感動のプロセスがないものについては、書かない。
逆に言えば、なにかに出会ったり、なにかを自分がはじめたときはいちばん感情が動くときですから、「書きどき」なのです。
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