秀吉が後継者に切腹命令?「豊臣秀次の死」のナゾ なぜ秀次は亡くなったのか?秀吉との関係は?

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それによると「召し仕える者は、侍10人。これに坊主・台所人(料理人)・下人・小者・下男5人を加え、15人とする。このほかの小者を召し仕えることは禁止する。

出家の身となり、黒い袈裟を着ている以上は、身分の上下にかかわらず、刀や脇差を帯びてはならない。また、奉公する者の縁者や親類を召し置いてはならない。高野山として、番人を昼夜問わず堅く申し付けよ。

もし、秀次らを下山させるようなことがあれば、高野山に成敗を加える。高野山の出入り口に番人を置き、秀次を見舞う者は止めよ」と書かれている。秀吉は、秀次が謹慎する高野山にかなり厳しい監視体制を敷いたのだ。

秀吉から自害命令があったのか?

通説では、7月15日に福島正則が高野山の秀次のもとを訪れ、秀吉から自害(切腹)の命令が下されたことを知らせたと言われているが、前掲の書状を見ると、秀吉から自害命令があったということは疑わしくなる。

「出家の身となり、黒い袈裟を着ている以上は、身分の上下にかかわらず、刀や脇差を帯びてはならない」という文言は、物騒な動きを抑止しようという思惑と共に、自害(自殺する手段)を奪うものでもある。

また、使用人や料理人のことまで規定しているということは、秀吉は秀次を高野山に長期的に住まわせようとしたと考えられる。決して殺そうとしたわけではなさそうだ。

ところが、秀次とその小姓たちは切腹してしまう。これは、無実を証明したいという秀次の想いが働いたのではないか。

秀次自害の報を受けて、秀吉は諸大名に上洛を命じる。家康をはじめとする諸大名は、秀頼への忠誠と、秀吉が定めた法への遵守を求められたのだ。秀次の首は京都三条河原に晒されるが、その首を前にして、秀次の妻子たちが次々に処刑されていった。

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豊臣秀次の墓(写真: minack / PIXTA)

秀次の13歳の娘まで斬首され、その光景は壮絶・凄惨なものだったという(処刑された者の数は数十人)。

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