秀吉が後継者に切腹命令?「豊臣秀次の死」のナゾ なぜ秀次は亡くなったのか?秀吉との関係は?

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さて、秀頼誕生以前に秀吉の後継者に目されていたのが、前述したように、秀次であった。

秀次は、秀吉の姉の子供である。秀次は最初、宮部継潤(浅井家臣)の養子となり、続いて、三好康長の養子にもなった。その後、秀吉の養子となるのだ。はては、関白職も譲られたのだから、秀次の前途は明るいものに見えた。だが、秀頼の誕生が、秀次の未来に暗い影を落とすことになる。

とは言え、秀頼誕生後、すぐに秀吉と秀次の関係が悪化したわけではなく、2人は手紙や物品のやり取りをしている。

秀頼が生まれた年(1593年)、秀吉は「日本の5分の4は秀次に、残りの5分の1を秀頼に渡す」「秀次の娘と秀頼との婚姻」を表明する。

これは秀頼が生まれたことにより生じる秀次の「心理的負担」を少しでも軽減させたいという秀吉の配慮ととることもできるだろう。逆に、秀吉は秀次を立てながらも、秀頼への権力移譲を早くも進めていたと見ることもできる。

秀吉と秀次の関係に変化?

良好な関係を保っていた秀吉と秀次だが、文禄4年(1595)7月頃になると、両者の不和情報が流れてくる。

7月3日に、石田三成ら奉行衆が関白秀次を尋問するという出来事が起きたのだ。

突然とも見える事態には何があったのか。その理由としては、秀次が酒色や女色に溺れ、殺生を繰り返したからというものもあるが、その「悪逆」行為は良質な史料からはうかがうことはできない。

秀次に謀反の疑いがあったとするものもあるが、秀次の謀反を証明するものも残っていない。

また、両者の不和の要因としては「天脈拝診怠業事件」という一般的にはあまり聞き慣れない出来事も挙げられている。

これは、医師の曲直瀬道三(玄朔)が、後陽成天皇よりも、秀次の診察を優先したという事件だ(1595年6月20日)。この事件により、秀次は秀吉の怒りをかい、謀反の疑いをかけられ、尋問されることになったというのだ。

7月8日、秀次は伏見に向かい、秀吉に釈明しようとするが、面会は叶わなかった。同日、秀次は高野山に向かうことになるのである。

7月12日には、秀吉側から高野山の木食上人に宛てて、秀次を高野山に住まわせることについての書状が出されている。

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