人間爆弾「桜花」と新幹線0系、その数奇な関係 殉職したはずの「発案者」、実は生きていた

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上:人間爆弾「桜花」(写真提供:湯野川守正)、下:新幹線0系(写真:K3/PIXTA)

1945年、日本の敗戦により太平洋(大東亜)戦争が終結し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命でいっさいの軍事活動が禁じられると、それまで陸海軍の研究機関や軍需産業に従事していた多くの技術者が一般の産業分野に流れ込み、戦後日本の復興に大きく貢献した。

その技術移転の範囲はきわめて多岐にわたるが、「世界一優秀」と称される鉄道技術の分野においても、技術者たちが戦時中培った技術や理論を基礎に、重要な役割を果たしている。特筆すべきは、かつて「夢の超特急」といわれた東海道新幹線の開発に際して生かされた、戦時中の航空技術者たちの研究の成果だろう。なかでも「人間爆弾」とよばれた特攻兵器桜花を設計した三木忠直は、重い十字架を背負いつつ、平和産業の象徴ともいえる新幹線の車両開発に執念を燃やした。

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「桜花」はどのように生まれたのか

海軍航空技術廠長の和田操中将から設計課主任・山名正夫技術中佐のもとへ、「グライダー爆弾の案を持ってきた者がいる。説明するから廠(しょう)長室に来い」との電話が入ったのは、1944年7月のことだった。海軍航空技術廠(空技廠)は、横須賀市の追浜に本廠、横浜市の金沢八景に支廠を置き、2000人の職員と3万2000人の工員を擁する、海軍の航空機開発、実験をつかさどる組織である。

山名は、新型機の設計を担当する設計課第三班長だった三木忠直技術少佐をともなって、和田中将のもとへ赴いた。三木は東京帝国大学工学部を卒業後、空技廠に入った技術士官で当時34歳。双発の陸上爆撃機「銀河」の設計主務者として、急降下爆撃、水平爆撃、雷撃(魚雷攻撃)を一機でこなす流麗かつ高性能な機体を生み出したばかりで、その手腕が高く評価されている。新型機の研究、開発の仕事に多忙をきわめていた三木は、「どうせまた、すぐには実現困難な案にすぎないだろう」と考え、あまり気乗りしないまま廠長室に向かった。

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