人間爆弾「桜花」と新幹線0系、その数奇な関係 殉職したはずの「発案者」、実は生きていた

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講演会は大きな話題を呼び、国鉄総裁・十河信二は自らの前でもう一度講演を行うよう鉄道技術研究所に要請、総裁や国鉄幹部を前にしての「御前講演」も実現した。前年の1956年には国鉄本社に島秀雄技師長を委員長とする「東海道幹線輸送増強調査会」が設置されていたが、この講演を機に東海道新幹線建設がにわかに現実味を帯びることとなった。国鉄は新幹線開発を8つの重点班に組織し、本格的な研究を始めた。

三木は、「美しいものをつくれ」と部下に命じて、空気抵抗の少ない先頭車両のデザインを粘土で作らせては壊すことを繰り返した。それは、「形の美しいものはすぐれたものである」という、海軍時代からの信念に基づくものだった。でき上がったデザインは、これまでのどんな鉄道車両にも似ていない、強いて言うなら戦時中、三木が設計した陸上爆撃機「銀河」や特攻機「桜花」の先端部分のイメージに似たものになった。松平は飛行機の振動研究のノウハウを生かして、高速走行時の振動問題を抑え込むためのエアダンパーを考案した。元陸軍の川辺一は、緊急時に自動停止するATC(自動列車制御装置)の研究に取り組んだ。

桜花の発案者は生きていた

もちろん、新幹線という国家的プロジェクトが彼らの力だけで完成したわけではない。車両デザインにしても、国鉄は三木のチームだけでなく、車両メーカーからデザイン案を9案、出させたりもしている。だが結局、いまでは「0系」と呼ばれる先頭車両の完成形は、三木が手がけたデザインとほとんど変わらないものになった。車台の振動を吸収するダンパーにいたっては、松平のほかに設計できる技術者はいなかった。

そして1964年10月1日、東海道新幹線は華々しく開業の日を迎えるが、三木はそれを待たず、1962年4月、新幹線車両の走行テストが始まる直前、「自分の力は出し尽くした。絶対に自信がある。あとのことは心配ない」と鉄道技術研究所に辞表を出した。三木は戦後、キリスト教に入信している。桜花を設計し、多くの若者がそれで死んだことへの贖罪に後半生を捧げたが、戦後日本の復興と平和の象徴ともいえる新幹線車両を手がけたことが、三木の心のなかでひとつの安らぎとなり、区切りになったのかもしれない。

松平精は2000年8月4日、90歳で、三木忠直は2005年4月20日、95歳で、それぞれ世を去った。

ところで、「桜花」を発案し、終戦直後に死んだこととされた大田正一は、じつは生きていた。戦後すぐの頃から、職と居場所を転々としながら桜花や空技廠関係者の前に幾度となく姿を見せ、「大田が生きている」ということは、いわば公然の秘密として三木忠直の耳にも入っていたという。

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