人間爆弾「桜花」と新幹線0系、その数奇な関係 殉職したはずの「発案者」、実は生きていた

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戦争に負けた日本は、占領軍(GHQ)によって航空機産業を禁じられた。三木は、特攻兵器を設計した自責の念から「二度と戦争に関わらないように」と、軍事に転用される可能性が低いと思われた鉄道技術者になることを決意し、運輸省鉄道技術研究所(1949年、国鉄に移管)に転身する。このとき、三木とともに鉄道技術研究所に入ったなかには、振動学の権威で、空技廠で零戦や桜花の振動問題を研究、解決した松平精もいた。松平は当時のことを、私に次のように語っている。

「国立にある研究所に行ってみたらびっくりしましたね。研究所というからには大きな建物や実験棟があって、と想像してたんですが、そんなもの全然ないんですよ。森のなかにバラックが3棟ぐらいあるだけで、そのバラックの裏はイモ畑になっていて職員がイモを掘ってる。私はそれまで海軍空技廠という世界有数の研究所にいたから、こんなところでなにができるんだろう、と思いましたね」

飛行機に限らず物体が高速で動けば、自ら振動を発生する(自励振動)という性質がある。このことを空技廠で、世界に先駆けて研究したのが松平だった。しかし、脱線事故の調査に携わった松平が、「高速走行で、列車が自励振動による蛇行動を起こしたための脱線」と事故原因を突き止めても、昔からの鉄道技術者は「レールの曲がりが原因」として、「スピードの出しすぎ」という運転手の人為的な責任を認めようとしない。車両設計に携わった三木忠直にしても、航空機の経験から、「車体を流線形にして空気抵抗を軽減し、なおかつ車両を軽量化すればスピードは上げられる」と主張したものの、「車体は重いほうが安定して走れる」と頑固に考える鉄道技術者を説得するのは至難のわざだった。

「夢の超特急」誕生のきっかけ

ところが、あることをきっかけに三木や松平の考え方が広く世の注目を集めることとなる。1957年5月30日、鉄道技術研究所が50周年記念事業として開催した、「超特急列車、東京-大阪間3時間への可能性」と題する講演会である。当時、7時間半を要した東京-大阪間の所要時間を半分以下に短縮しようというのだ。これは、三木が生前私に語ったところでは、当時、普及し始めた航空機輸送への対抗策との意味合いもあったという。

この講演会は国電の車内吊広告で告知され、朝日新聞にも予告記事が掲載された。講演会当日はあいにくの雨だったが、会場となった銀座・山葉ホールには定員の500人をはるかに超える聴衆が詰めかけた。はじめに鉄道技術研究所長・篠原武司が、広軌(標準軌)で新しい路線をつくれば、「東京-大阪間3時間」は到達可能であることを述べ、次に貨客車研究室長だった三木が「車両について」、軌道研究室長・星野陽一が「線路について」、車両運動研究室長の松平が「乗り心地と安全について」、さらに元陸軍の通信技術者で信号研究室長の川辺一が「信号保安について」のテーマで、それぞれ講演した。三木が、「車両の空気抵抗を減らし、重量を軽くすれば時速200kmを超えます」と持論を述べたとき、会場にはどよめきが広がったという。

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