「真田軍に負けた家康」思考停止に陥る戦のリアル 「誰が敵か、味方なのか」もはやわからなくなる
『三河物語』によると「諸部隊の人々が、四・五町逃げる間に、三百余人が殺された」という。
大久保忠世は神川(上田市)まで退却したものの、鳥居元忠の配下の兵士が隊列を乱し退くのを見て、たった1騎で向かった。それに従ったのが『三河物語』の著者・大久保彦左衛門忠教である。
大久保忠教は「銀の揚羽蝶の羽の九尺もある指物」を掲げ、敵に向かっていく。黒い具足を着用し、槍で真田方の兵士を殺していったのだ。そのとき、「倒したものの首をとることはなかった」と書かれているのは、手柄よりも敵を倒すことを優先したからだろう。
乱戦のなか、17歳頃とされる真田方の少年が忠教のところへやって来た。その少年は、忠教らを敵と認識していないようだ。
忠教の隣にいた天野小八郎が少年を槍で突こうとしたがそれを止めたのが、忠教だった。「子どもだ。可哀想だから、許してやれ」と制止したのである。混戦のなかでは、誰が敵か、誰が味方か、見分けがつかないことが多々あったようだ。
敵か味方かわからない、混乱が生じる
真田の配下の日置五右衛門尉も、敵と知らずに馬に乗って、徳川兵の間を通っていった。
それをめざとく見つけた忠教は「あれは、敵だ。突き落とせ」と叫ぶが「いや、敵ではない」という声も聞こえてきた。それでも忠教は「いや敵(日置五右衛門尉)だ。突き落とせ」と主張したので、最初は足立善一郎という者が走り寄り、日置を槍で突いた。その槍は日置の鞍に当たる。
日置の供の者も反撃してきて、足立善一郎も槍で突かれた。日置は忠教の目の前にやって来る。忠教はチャンスと思ったのだろう、日置の「胴の真ん中」を突こうとした。しかし、忠教の槍は、日置の供の者の槍によって、絡めとられ、跳ね除けられてしまう。
諦めずに、忠教はもう1度、日置を突こうとするが、態勢を整えている間に、日置は通りすぎてしまった。敵に向かって進もうとする忠教だが、退いてくる味方もいて、彼らは「この先は行ってはいけない。見知っている者(味方)は誰もいない」という有様であった。徳川方の劣勢は明らかだったのだ。
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