「真田軍に負けた家康」思考停止に陥る戦のリアル 「誰が敵か、味方なのか」もはやわからなくなる
小牧・長久手の戦い終結後、秀吉は次々に敵対勢力を追い詰めていく。和泉国・紀伊国の一揆を鎮圧し、四国の長宗我部元親も攻めて降伏させる(1585年8月)。北国の佐々成政も攻められ、8月中に降伏した。信雄と家康が秀吉との対決に際して共闘を呼びかけた勢力が、次々に秀吉の軍門に下っていったのだ。
それに伴い、秀吉の官位も上昇した。天正12年(1584)11月には従三位権大納言、翌年3月には正二位内大臣、7月には従一位関白となったのである。天正14年(1586)には、朝廷から豊臣の姓を賜ることになる。
秀吉がこの世の春を迎えようとする一方で、家康は1つの困難に直面していた。それは、小田原北条氏との領土問題にも関わることだった。
本能寺の変後の天正壬午の乱(1582年)において、徳川家と北条家は甲斐国などで戦をする。
その年の11月には両家は和睦。家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぎ、甲斐国・信濃国は徳川領、上野国は北条領とする国分が行われた。そして、北条氏が領していた甲斐国都留郡と信濃国佐久郡は徳川方に引き渡すこと、徳川方は上野国沼田領を北条方に引き渡すことも決められていた。
真田方は割譲を拒否
ところが、沼田領は信州上田城の真田昌幸が支配していたことから一悶着起こる。当時、昌幸は家康の傘下にあったので、沼田領の割譲を要求されたのだが、昌幸はこれを拒否したのだ。真田側にとって、拒否は当然のことであっただろう。
だが、徳川にとっては、沼田領の北条氏への割譲が実現できなければ、北条氏との関係にヒビが入ることにもなりかねない。天正13年(1585)、真田昌幸は徳川から離反。代わって、越後の上杉景勝に接近し、同年7月には軍事的保護を得る。
真田の行動に怒った徳川は、同年閏8月、真田が籠る上田城を攻撃した。これが第1次上田合戦である。『三河物語』によると、徳川方は鳥居元忠・平岩親吉・大久保忠世・諏訪頼忠・柴田康忠・保科正直らを上田に差し向けた。
城に攻め寄せた徳川軍は、二の丸まで乱入し放火しようとしたが、柴田康忠が「放火してしまえば、城内の敵方が出てこれまい。火を放つまでもなかろう」と渋ったという。
柴田は城内の敵とぶつかり、戦功を立てたかったのだろう。結局、火攻めにしなかったこともあり、城内からは敵が次々に繰り出してくる。退却する徳川勢は敵に追撃され、痛手を受ける。
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