ビームスの“らしさ”はどのようにして生まれたのか。
設楽家はパッケージの製造をしていて、工場と住まいが隣接していた。従業員たちは住み込みで家族のような存在だった。「今でも僕が、ビームスのスタッフをファミリーと呼んでいるのは、そんなところにルーツがあるのかもしれません」(設楽さん)。
着るものはすべてお母さんの手作りで、「親父の服を仕立て直したり、おばあちゃんのニットを解いて編み直したり、僕の服はすべて母の手作りでした」――日本が経済成長を遂げ、暮らしの豊かさを実感していく中、設楽さんはアメリカの生活文化に強く憧れたという。
大学を卒業して就職したのは電通だった。「時代の先を見たいという強烈な欲求から、広告代理店に入ったのですが、モーターショーのプロジェクトなど、貴重な経験を積むことができました」。
一方、家業がオイルショックで不況に巻き込まれていく中、事業の多角化の一環として、小売りビジネスを手がけてみようとなり、設楽さんが高校時代からはまっていたファッションの領域で、小売店をやってみることになった。「時代の先を読むという意味で、ファッションは象徴的な存在でもあったのです」(設楽さん)。
時代をとらえるのに「勘」は大いなる要素
憧れていたアメリカの西海岸のもの――スニーカーやジーンズといった服飾関連に加え、スケートボードやロウソク立てなど、暮らしを取り巻くさまざまなものを買いつけて売ることにした。
「当時、憧れていたアメリカの、自由・平等・博愛精神の影響も受けていて、ここで働く人、関係する人に幸せになってほしい。服を売るにとどまらず、日本の若者の風俗や文化を変えたいと考えていたのです」(設楽さん)
その精神は今でも続いている。ビジネスの根幹にあるのは、「売る」というより、「何かを興したり伝えることで、多くの人がハッピーになってほしい」という思いにあるという。
そして「何かを興す」にはタイミングが大事であり、過去の経験や知恵を含めた「勘」が試される。「時代をとらえるのに『勘』は大いなる要素であり、そのためにミーハーであることは欠かせません」(設楽さん)。
ビームスの歴史を振り返ると、設楽さんが「新しい何かを興そう」とすると、必ず反対の声が上がってきた。
例えば、メンズからスタートしたビームスがレディースを手がける時、地方に出店する時、ファッションビルに出店する時、子ども服やゴルフウェアを始める時など、今となっては成功している事業ばかりなのだが、設楽さんが発案した時点では「ビームスがやるべきではない」という声が、社内の圧倒的多数派だったという。
「それぞれの時代で、それぞれの反対理由はあるのですが、根底に流れているのは、ファッションの世界で尖ったことをやっているのが“ビームスらしさ”というプライドのようなものです」(設楽さん)
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