BTSの軌跡辿った初のオフィシャルブックの中身 『BEYOND THE STORY』の冒頭に書かれていること
約1か月半前の2010年11月初め。BTSのSUGAとしてデビューするミン・ユンギは、後日のJ-HOPEと同じように、新沙駅1番出口近くに到着し、宿舎を探していた。
ーー両親と一緒に来たのですが、練習室はチョングビルディングの近くにある油井(ユジョン)食堂の地下にありました。そこに立っていたらPdogg/ピドックさん【作曲家・作詞家。デビュー前からBTSにかかわるプロデューサーとして知られる。現在はBIGHIT MUSIC所属】が来て、僕を連れて行きました。後になって両親が教えてくれたのですが、そのときの僕の姿は、まるでどこかに連れ去られていくみたいだったと(笑)。
当時、SUGAは17歳。音楽をやりたいという理由ひとつで故郷の大邱(テグ)からソウルに来るには、まだ少し早い年齢だった。しかし韓国では、ソウルではない都市でポピュラー音楽のミュージシャンを目指すのは、現実的に限界があった。
ーー大邱でヒップホップ・クルーとして活動したり、スタジオで働いたりしていました。でも、規模が小さかったんです。たまにイベントでステージがあるぐらい? 公演をやっても、ギャラの代わりにチケットをもらったり。お金のために音楽をやっていたわけではなかったけれど、少なくとも食事代ぐらいは支払われるべきだと思います。でも、それももらえない場合が多かったです。
初めての公演に来たのは2人
Big Hit Entertainmentに入る頃、SUGAは大邱ですでに作曲でお金を稼げるレベルのアーティストになっていた。音楽学院でMIDI【Musical Instrument Digital Interface。電子楽器やコンピューター間で演奏データを伝送するための世界共通規格】を学ぶうちに作曲家を紹介され、いくつかのスタジオを行き来しながらさまざまな曲を作った。
当時、大邱には実用音楽を学べる高校がなかったため、一時は芸術高校の入試を念頭にクラシック音楽を勉強したこともあった。いろいろなミュージシャンから少しずつ学び、校歌からトロットまで幅広い曲を手がけた。しかし、ソウル以外の地域では、プロミュージシャンを夢見る、特にヒップホップを志す10代の少年の渇望を満たすのは簡単ではなかった。
ーーあの頃の大邱では、ヒップホップは大衆的ではありませんでした。ラップをすると、周りの人から〝ヒップホップ戦士〟とからかわれた時代で、一緒に音楽をやっていた仲間と公園でサイファーをしても、見に来るのは20人ぐらいでした。初めての公演に来たのは、2人だったし。
SUGAにとって、ソウルに行くのは合理的な選択だった。
(監訳/桑畑優香)
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