織田家は誰継ぐ?「清洲会議」裏にある秀吉の思惑 柴田勝家と秀吉が対立「賤ヶ岳の戦い」が起きる

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他家に養子に入った信雄・信孝ではなく、信忠の子・三法師が家督継承者と目されたのは、そうした事情もあるだろう。しかし、三法師はまだ幼い。名代(後見人)が必要であった。名代を織田信雄・信孝のどちらが務めるか。両者は互いに譲らなかった。

織田家の宿老(羽柴秀吉や柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興)は、信雄・信孝を名代とせずに、三法師を当主として、宿老を中心とした政権運営を進めていくことにした。

三法師は、安土城の修築が終わるまで、叔父・織田信孝がいる岐阜城に滞在することになった。織田信孝は三法師を手中にして、政治の主導権を握ろうとするが、織田信雄はそれに反発。織田信雄は羽柴秀吉と結び付き、織田信孝は柴田勝家と組むことになる。

秀吉と柴田勝家の対立もあった

その背景には、宿老同士の対立(羽柴秀吉VS柴田勝家)もあった。天正10年(1582)10月28日、羽柴秀吉は、山城国本国寺(京都府京都市)において丹羽長秀・池田恒興と会談する。そして、織田信雄を名代とすることに決めるのだ。秀吉側の言い分としては、柴田勝家の企みで、織田信孝が三法師への謀反を企てたので、織田信雄を名代に立てることにしたという。

だが柴田勝家からすると、秀吉らの行動は、清洲会議の取り決めに背くものだった。

同年11月1日付の秀吉書状(家康の家臣・石川数正宛)が残されているが、そこには、前述の旨が記されるとともに、家康にも織田信雄擁立に賛同してほしいとの内容の記載がある。

この秀吉書状には、家康に自分の意向を伝えてほしいと書かれているので、実質上は、家康宛の書状と見てよい。家康は、信雄の織田当主擁立に賛意を示すことになる。

秀吉らのやり方に反発した柴田勝家は、織田信孝や滝川一益(織田重臣)と一緒になり、挙兵する(1583年4月)。秀吉は、賤ヶ岳の戦い(滋賀県長浜市)で柴田軍を破ると、4月22日には、柴田勝家の本拠・北庄城(福井県福井市)を落城させ、勝家を自害に追い込んだ。織田信雄は、信孝が籠る岐阜城を攻め、開城させる。

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