織田家は誰継ぐ?「清洲会議」裏にある秀吉の思惑 柴田勝家と秀吉が対立「賤ヶ岳の戦い」が起きる

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5月2日、織田信孝は尾張国内海(愛知県)で自害させられた。このことから、秀吉の勢威は増し、彼が天下人として政治を推進していくことになる。

同年、秀吉は摂津の大坂に城を築く。織田信雄は、戦の勝利により、尾張・伊勢・伊賀の3国を領有する(本拠は、伊勢長島城、三重県桑名市)。

だが、秀吉と織田信雄の関係はその後、急速に冷却していく。秀吉としては、織田家中の権力闘争を勝ち上がり、実力者となった今、信雄の存在価値は低下していた。織田信雄としては、秀吉が天下人たらんとして台頭してきたのが気に入らない。

天正11年(1583)の11月には、上方で織田信雄が切腹したという風聞が流れるほどであり、秀吉と織田信雄の対立は臨界点を迎えようとしていた。織田信雄の重臣の中にも、秀吉と対立するべきではないとの見解を持つ者もあった。津川雄光・岡田重孝らがそうである。

信雄は家康を頼りにする

しかし、その一方で反秀吉派の家臣もいて、織田信雄は津川雄光と岡田重孝・浅井長時を伊勢長島城で殺害してしまう。秀吉に内通したという嫌疑であった。これが天正12年(1584)3月6日のことである。

3重臣の殺害は、秀吉と断交すると宣言したに等しい。台頭してきた秀吉に対抗するため、織田信雄が頼りにしようとしたのが、家康であった。家康は信雄と組むことになるが、その背景には関東の情勢にまで介入し始めた秀吉への対抗心というものがあったかもしれない。

天正12年2月、家康は酒井重忠を尾張に遣わし、織田信雄と密談させている。3月上旬の信雄3重臣の殺害は、家康と相談したうえでのことだったのである。家康は秀吉と対決する道を選んだのだ。信長が本能寺で倒れてからわずか2年。その間に政治情勢は激変し、また新たな戦いが始まろうとしていた。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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