容赦なく人殺す「信長」意外と知らない"情け深さ" 「傍若無人」と語られる性格は本当だったのか

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天正3年6月26日、信長は京都に上る途中で、急に「山中の猿」のことを思い出す。そして、木綿20反を自ら取り出すと、山中宿を訪れ、「この町の者は、男女問わず、皆、集まるように。言いたいことがある」と言い出した。

町の者は、「権力者の信長が何を言い出すのか」と緊張した面持ちで集まってくる。信長は木綿20反を、乞食をしていた「山中の猿」に与えることを宣言すると、皆に対し「この反物半分でもって、誰かの家の隣に小屋を作ってやり、餓死しないように、山中の猿に情をかけてほしい」と伝える。

さらには「山中の猿のために、麦や米を少しずつでも与えてやったならば嬉しい」とも信長は呼びかけた。

哀れな境遇の人に同情して、私財を投じ、助けてやってくれないかと促したのだ。あまりのことに、「山中の猿」はもちろんだが、町の者や信長のお供の者まで涙を流したという。世間では「魔王」と言われることもある信長だが、この逸話からは「仏」の顔を覗くことができる。

また信長は「怖くて近寄りがたい」イメージが流布しているが、若い頃は、踊りの興行をし、自ら「天人の衣装」をまとい、小鼓を打ち女踊をしたこともある。

津島の年寄たちを御前に召して、親しく気安く声をかけ、暑い最中でもあったので、年寄たちを団扇であおいでやってもいる。「お茶を飲まれよ」とも勧めたという。年寄たちは、暑さの疲れを忘れ、感涙を流して帰っていったそうだ。

一度逆らった者は必ず成敗する!?

信長は一度自らに逆らった者は、許さずに成敗すると思われているが、決してそうではない。

弟・信行が謀叛したときも、謝罪すれば、許している。信行に与した柴田勝家、林佐渡守をも許しているのだ。信行は、再度、謀叛を企み、信長に誘い出されて殺されているが、それは仕方ないことだろう。

信長を裏切った者の中には、室町幕府の第15代将軍の足利義昭もいるが、義昭が兵を挙げたときなども、信長は最初から踏み潰そうとせずに、交渉で和睦をもちかけている。一度は和平が成立したものの、義昭がまたもや挙兵したため、信長も対処せざるをえなかった。

そのほか、 松永久秀が謀叛したときも、怒り狂って討伐せよと叫ぶのではなく「どのような事情があるのか。存分に思うところを申せば、望みを叶えてやろう」と信長は交渉を提案している。

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