都市近郊ほど地方選が「ドッチラケ」の意味 「未来を語りたがらない候補者」を生む仕組み
この構造の限界を思い知ったのは、2010年に突然わき起こった、「東京都青少年の健全な育成に関する条例」(青少年育成条例)の改正案、いわゆる非実在青少年問題の時であった。
すでにお忘れの方もあるかもしれないので説明しておくと、当時東京都知事だった石原慎太郎氏が、青少年育成条例の改正案として、アニメや漫画の登場人物に対しても児童ポルノ法の対象として規制するという方針を打ち出したものだ。東京は出版や映像制作といった日本のメディアの中心地なので、東京都の条例は日本のみならず世界中に影響を与えることになる。
多くの有識者や団体がこの条例改正案に反対するよう、都議会議員や政党の元へ押しかけ、都庁が陳情の人たちでごった返すという前代未聞も事態になったが、党としての意見もなかなか一本化できず、議員らの反応は芳しくなかった。実際に改正案の一部は丸められたものの、それは超党派の議員らが団結した結果、かろうじて押し返したに過ぎなかった。
利害関係が「ダイレクト過ぎる」地方選
今回の市議会選挙では、比較的丁寧に数名の候補の選挙演説を聞きに行った。うちの選挙区が特殊なのかわからないが、政党を前面にプッシュしている議員はほとんどなかったのが特徴的だった。
大体地方議員候補の演説は、まず候補を押す地元有力者数名の挨拶に続き、候補者の演説が5分、人が多く集まっていれば10分ぐらいといったところである。その内容は、これまで自分がどのように地域に貢献してきたかという、過去の成果やステータスを示すトークが大半で、地域固有の問題を具体的に取り上げ、どれをどういう方針で解決するのかといった、未来のビジョンについて語ったケースはなかった。これは国会議員選挙と大きく異なる点である。
なんでこんなことになるのかなと、帰り道腕を組みながら考えたところ、少しわかった気がする。地方選挙は、利害関係がダイレクト過ぎるのだ。問題解決の方法を巡って対立があった場合、どちらかに肩入れすることになれば、逆の立場の人々の票を失いかねない。さらに政党もそんな地方の細かい話にいちいち方針など出さないので、「政党の方向性」として語るべき案件もないのだ。
一方でもう決着が着いた話なら、自分の成果としてアピールできる。この背景には、「議論して決まったのなら正しい方針」という免罪符が機能している。
本来ならば、選挙演説の場で未来の政策について持論を披露するのは、政治家としては当たり前だ。逆にその時期以外に、議員の考えを知る機会がない。生活圏の身近な問題を吸い上げるために地方議会が存在するというのであれば、選挙の時だけでなく常時議員にアクセスできるパスが必要だが、ネットからアクセスできない議員のほうが多い。
後援事務所に足を運んでアポイントを取り、日時を設定して先生お忙しいところ云々と頭を下げ下げ陳情に行くという、昔ながらのスタイルでしか問題提起ができないのであれば、土日祝日しか昼間地元にいない勤め人は、いつ地元の政策議論に参加できるのか。
今回の市議会選挙で、さいたま市の投票率は40%しかない。区によっては36%という数値である。さらに1区は無投票当選だ。こんな状況で、この選挙は民意を反映した結果と言えるのだろうか。投票しないと変わらない、だけど投票しても何も変わらない。大都市に依存して暮らす衛星都市の地方選では、こうしたジレンマが未だに続いている。
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