駅周辺には日本語学校がいくつも立地している。今では韓国人のみならず、中国や東南アジア系やイスラム系の外国人も多く新大久保に集まり、多彩な商店や飲食店が林立。手軽に海外旅行気分が味わえるエリアとして人気となっている。
大久保通りと職安通りの間には2020年、山手線に沿ってつつじ通りが開通し、新宿エリアと新大久保エリアの間の往来が改善された。都市計画道路補助72号線が正式名称で、1946年の都市計画によって建設が決まった道路。ようやく全通した。
新宿に近接しているため、大久保通りから南側、職安通りにかけての一帯には最近、かなりの路地裏にまでエスニック系の飲食店が出店するようになった。
ただ、太平洋戦争中の空襲で焼き払われるまでの大久保は住宅街であり、華族や実業家、文化人の邸宅と、庶民の家が混在しつつ並んでいた。その面影は大久保通りから北側すぐ。江戸時代に鉄砲組の下級武士が集まって住んだ、南北に何本も細い路地が走る町割り、そのままのエリアに入ると色濃く感じられる。表通りの喧噪とは対象的で、少し場所が違えば雰囲気が大きく変わるのが、大久保というところだ。
閑静な戸山地区
さらに北へ進むと旧陸軍関係の施設が集まっていた一帯を再開発した戸山。戦後は都立戸山公園を中心に整備され、高層ビル・住宅が建ち並ぶ。
都内の団地の草分け的存在とも言える戸山ハイツは1949年の完成だ。今の地域のシンボルは、1988年にオープンした東京グローブ座だろう。早稲田大学や桜美林大学などのキャンパスも立地する。この地域も、最寄り駅の1つが新大久保になる。
戸山には戦後、国鉄が貨物駅設置を構想したことがある。そのため、1952年に西武新宿線が高田馬場から西武新宿へ延伸された際には、これは仮ルートと考えられており、山手貨物線と位置を入れ替えて、貨物駅への出入りを可能とする工事を追って行うよう計画されていた。なお、このあたりの経緯は、本サイトの草町義和氏の記事「西武『大久保駅』構想は、なぜ幻となったのか」に詳しい。
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