北海道の旧胆振線「鉄道代替バス」も分断の必然 伊達市側と倶知安側の間に旅客流動の「分水嶺」
国鉄胆振線は室蘭本線と接続する伊達紋別と、函館本線と接続する倶知安との間を結んでいた83.0kmの路線であったが、国鉄再建法に基づく第2次特定地方交通線に指定され、1986年11月1日付で全線廃止された。
最初の開業区間は1919年11月15日の京極―倶知安間で、翌年に脇方まで延伸されている。脇方にあった大規模な鉱山からの鉄鉱石輸送を主な目的とした鉄道で、当時の鉄道院が運営に当たった。一方、京極―喜茂別間は胆振鉄道、伊達紋別―西喜茂別(後の喜茂別)間は胆振縦貫鉄道と、いずれも鉄鉱石輸送を目論んだ私鉄の手により建設され、1941年10月12日に全通している。
1943年に始まった昭和新山の造山活動では大きな被害を受け、一部は線路を移設して対応した。全線が国有化され、胆振線と命名されたのは1944年である。
廃線前から存在した「分水嶺」
しかし、もともと胆振線は伊達紋別―新大滝間が現在の胆振総合振興局、御園―倶知安間が後志総合振興局に属しており、高校生の通学可能地域が分かれるなど、新大滝―御園間に旅客流動の「分水嶺」が存在した。
この区間の駅間距離は13.4kmもあり、廃止前の時刻表を見ると、利用の実態に合わせて伊達紋別―新大滝間、御園―倶知安間の区間運転も設定されていた。伊達紋別―倶知安間の直通列車は1日4往復であったが、乗り通す客は稀であったと思われる。
鉄道の廃止後は、この地域一帯に路線を持っていた道南バスが代替路線(伊達倶知安線)を受け持った。おおむね胆振線と並行する伊達駅前(伊達紋別駅)―倶知安駅前の直通系統を主とし、洞爺湖温泉方面など既存の系統の一部を手直しして補完する形である。
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