志賀直哉の批判に激怒、太宰治の反論に共感する訳 日本人の家族信仰になじめない人へのエール

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結局、「太宰などお殺せなさいますの?」なんて書いた後、太宰は自ら命を絶ってしまうのだった。

しかし太宰の文章は、後輩としての抗議にとどまっていない。『如是我聞』の中で、太宰は「老大家」(つまりは志賀直哉)たちに見る、「家庭」というものが与える「自信」について書いているのだ。その文章が太宰の価値観そのものをよく表現しているので、最後に引用してみよう。

一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。
私は、或る「老大家」の小説を読んでみた。何のことはない、周囲のごひいきのお好みに応じた表情を、キッとなって構えて見せているだけであった。軽薄も極まっているのであるが、馬鹿者は、それを「立派」と言い、「潔癖」と言い、ひどい者は、「貴族的」なぞと言ってあがめているようである。(『如是我聞』(一))

太宰は「家庭を大事にすること」は、世の中のマジョリティにとっての神なのだが、そんなのはエゴイズムでしかない、と看破する。そう、つまりは「家庭」というものが、日本の人々に絶対的な正義として君臨していることを、ここで指摘しているのだ。

太宰が随筆の中で抗議したこと

太宰は確かに、女たらしで、妻に苦労をかけていた。家庭の苦労を、妻に負わせていた。それは批判されるべき行為ではある。だが、太宰は随筆の中で抗議する。日本人が、家族というものを神とあがめるのは、本当に正しいのだろうか? と。

日本人の家族信仰とは、何なのだろうか? と太宰は問う。それは彼自身の小説のテーマであり、そしてそれは『人間失格』をはじめとする晩年の小説にも通じてゆく。

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