大泉学園、「アニメの街」になった未完の学園都市 大学誘致できず、広大な土地に映画産業が着目

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一方、駅名が改称された頃、大泉には新しい時代の波が押し寄せていた。大正期から大衆娯楽として映画が人気を博し、映画産業が活発化していた。映画産業は撮影のために広大な敷地が必要で、1932年には豊島園の隣接地に撮影スタジオが設立される。このスタジオは財政事情からすぐに閉鎖されたが、1935年には大泉に新興キネマという映画製作会社がスタジオを開設する。

新興キネマは松竹が出資した映画製作会社だった。大阪を拠点としていた松竹は東京進出を目指していたが、都心から遠く離れた大泉に系列となる製作会社を設立した理由は、武蔵野鉄道や大泉の地主たちが土地を提供したことが大きい。また、スタジオ用の広大な土地とともに、撮影時に雑音が入らないよう静かな環境が求められてもいた。

こうした経緯から、農村然としていた武蔵野鉄道の沿線に映画産業が芽吹いていく。そのまま大泉学園駅周辺は映画産業の街として体裁を整えていくように思われたが、その矢先に日中戦争が勃発。政府は非常事態という名目で銀行などの金融機関、新聞などの情報機関、鉄道などの交通機関を統合した。

映画産業も統合対象とされ、新興キネマは大都映画や日活製作部門などと合併させられる。この合併により、1942年に大日本映画製作(大映)が発足。統合で企業規模を大きくした大映だったが、戦局が激化すると大泉の撮影所は閉鎖に追い込まれ、海軍の航空機部品を製造する大泉航空機製作所の工場に転換された。終戦後、工場は用済みとなるが、撮影所が再開されることはなかった。

映画の街、そしてアニメの街へ

戦後復興が動き出した1947年、東宝・日活・東横映画(現・東映)・吉本興業は大泉航空機製作所の工場跡地を活用するべく、同地に貸スタジオを業務とする太泉スタヂオ(後の太泉映画)を設立した。

東宝は阪急の総帥だった小林一三が、宝塚歌劇団の公演を東京でも実施するために設立した会社で、そこから派生して映画館経営や映画製作に参入していた。東京横浜電鉄は総帥・五島が小林に私淑しており、阪急のビジネス手法を模倣していた。東横映画は沿線開発の一環として1938年に設立され、映画館経営を開始。その後に映画製作へと進出する。

戦後に設立された大泉スタヂオは西武沿線にありながらも、東宝・東横映画といったライバル会社ともいえる私鉄資本が出資することによって沿線文化を育ててきた。ちなみに、地名が大泉であるにもかかわらず社名が「太」泉になった理由は、「水に流されることがないように、大の字に点を打って止める」という意味が込められている。

映画館や映画製作の素地が整い始めると、両者を結ぶ配給会社も設立される。太泉スタジオと東横映画は東京映画配給(東映配)を設立したが、東映配の業績は伸び悩んだ。そこで、3社は合併。これにより、東映が発足した。

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