「音大卒」は、ビジネス社会でも武器になる

「ピアニストは撃たないでください」

ちなみに、本書によると、一般企業への就職は17%。音大生の場合は、就職とはむしろ「音楽に挫折した」という負の印象を与えるもののようだ。実際に、就職課には“音楽を続けるか捨てるか”という切羽詰った悩みを抱えて訪れる学生が多いという。そういう学生に対する、著者の温かい思いがあふれ出た一文を紹介したい。

 音楽を学ぶことを通じ、悩み苦しんでいるみなさんにとって、音楽はすばらしい教材の役割を果たしています。音楽で生きていけないのなら思い切って音楽を捨てよう、というのは一見潔く見えますが大きな誤りです。すばらしい教材を粗末にしていることと同じです。どうかその音楽を、あなたの音楽を大切にしてください。

 

そして、著者は音大生に「自立」を薦める。明言されてないが、それは「経済的な自立」とニアイコールのようだ。社会に出て経済的に自立しながら音楽を続けていき、それが両輪となって活躍の場を広げていくチャンスがあるというのだ。たしかにいま企業は、多様な人材を抱えることでイノベーションを起こし、変化することで生き残ろうとしている。イノベーションは、同質の集団では起きにくい。個人演奏家にはなれなかったとしても、演奏の優劣がわかることは音大生ならではの個性で、それは企業で活かせるものだと私は思う。

同じことは、ほかの芸術系学部にもいえる。私も同人誌に小説を書いていたのでわかる。私はオールラウンドサークルを楽しんできた友人に肩を並べるつもりで、就職課に「パンピー(一般ピープル)になる決意」という文章を残した。いま思うと赤面ものだが、これを読んで、後を追ってきた後輩もいた。文学部にも“続けるか捨てるか”に悩む学生がいるという証である。

社会に出て気づく、自分の価値

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しかし、私が就職してわかったのは、文章を書ける人が意外に少ないという事実だった。皮肉なことに私は、社会に出たことで文章を書き続ける理由が見つかったのだ。芸術家は99点を超える領域で競争する。しかし、実業界では70点あれば目立つ。学卒時に99点が取れなくても、まず自立して、そこから伸ばしていくこともできるのである。

音楽に固執した結果、生活に困窮した卒業生を著者は数多く見てきている。そして、失敗の類型を本書で紹介している。教員挫折系、音楽求道系、青い鳥症候群系、ブラック企業系……それを読みながら、私は、学生時代の仲間たちの顔が目に浮かんだ。いつしか連絡をとらなくなってしまった仲間たち。いま、どうしているのだろう。

大学に入って最初の授業で先生から「文学部に入ったからには、まともに就職しようとは思わないで欲しい」と言われた。その言葉は、その時の私のアンテナと余りにも離れたパルスを持っていて、だからこそ心に刻み込まれた。

入学したてで浮き足立っていたのではない。私は、「まともな就職」を目指して育てられたわけではなかったのだ。両親は、ただ人の役に立つ仕事をして欲しいと願っていたように思う。先生の発言は「まともな就職」を目指して育てられた学生に向けられていた。いい大学、いい就職を目指す教育が、古い時代の幻想でしかないことはすでに多くの大人は気づいているだろう。

本書を読み、あらためてそれを再認識していただけたら喜ばしい。素晴らしいピアニストになる才能の芽を摘まない、そんな世の中であって欲しいと私は願っている。

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