2人は大真面目だったが、周囲の女性秘書たちは苦笑していた。そんなことあるわけないでしょ!と言われた。しかし考えれば考えるほど、ほかに選択肢はないように思えた。
それまで総裁人事は、ほぼ「日銀と大蔵省のたすき掛け」で決まっていた。しかし両者とも今やスキャンダルにまみれている。ちなみに当時はまだ、「日銀総裁に経済学者を」という発想はなく、「大きな組織を率いたことがある人」が当然の条件とされていた。
何より誰かを指名して、その人の新たなスキャンダルが発覚したら最悪である。そして世の中に「完全にクリーン」という人は、そんなに多くはないのである。その点、われわれがよく知る速水さんは敬虔なクリスチャンであり、みずからに厳しい方であった。
以下は伝聞情報だが、翌日の14日土曜日に速水宅に松下総裁から電話があったらしい。速水氏は「一晩考えさせてくれ」と返事をして、次の日に承諾した。おそらく日曜日の午前にいつもの阿佐ヶ谷教会に行き、そこで腹を決めたのだと思う。自分は貧しい「土の器」でも、これを使おうという神のお召しには応えねばならない、というのが速水さんの信念であった。
総裁指名後、激変していた速水氏
その翌週は大騒ぎとなった。松下総裁の辞任の後を受け、橋本首相による総裁指名を受けた速水さんは、金曜日の3月20日には日銀の人(この日から直ちに第28代総裁)になった。1週間の間に引っ越しの準備はもちろんのこと、さまざまな対外役職の辞任手続き、さらには持ち株の処理まで急がねばならなかった。
何より驚いたのは、即席で用意された「社内お別れ会」に現れた速水さんは、1週間前にご一緒した老人ではなくなっていたことである。あの同友会時代と同じ、迫力ある怖い上司に戻っていた。「三日会わざれば刮目すべし」というのは、なにも若者に限ったことではなかったのである。
以上、25年前の「日銀サプライズ人事」に関する私的体験をご紹介した。今でも副総裁人事が3月19日までとなっているのは、このときのサイクルが続いているからである。
総裁人事が4月8日までなのは、2008年の白川方明(しらかわまさあき)総裁就任が国会のゴタゴタによって遅れたからである。なぜこんなセンシティブな人事が、資金需要が高まる年度末をまたいで行われるのかと言えば、それは25年前の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」に原因があり、それ以前は12月に総裁が交代していたのである。
1998年3月時点はまだ旧日銀法時代であったから、国会同意人事の手続きなどは不要であった。翌4月から新日銀法が施行され、「中央銀行の独立性」が担保されるようになる。
速水さんは、新日銀法における初代総裁となった。そして1999年2月のゼロ金利政策の導入、2000年8月のゼロ金利解除とその失敗、翌2001年3月からの量的緩和政策の導入と続いていく。その辺の評価について論じることは、筆者はその任にあらずと心得ている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら