植田和男・新日銀総裁が抱える「5つの超難問」 今は25年前の速水氏就任時と不思議と似ている

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秘書としてお仕えする速水さんは、とっても怖い上司であった。正直、この日も「終わったらクルマに乗せて、とっとと送り出してしまおう」と考えていた。港区の虎ノ門にあるホテルオークラから、当時の日商岩井本社があった赤坂の溜池交差点までは、どうせ歩いても大した距離ではなかったし。

ところがすっかり好々爺になっていたこの日の速水さんは、「君も乗っていくか」と言うのである。

同友会時代には、ボスは秘書のことなどほとんど眼中になくて、よくいろんな場所で「置き去り」にされたものなのだが。「ああ、この人は本当に老いて丸くなったのだな」と思った。そこで雨が降る中を、2人で黙ってクルマを待ち続けたのであった。朝だというのに、気分はすっかりたそがれていた。

過剰接待事件が日銀にも波及した1998年

この時期、日本経済はバブル崩壊後の金融危機の土壇場にあった。前年の1997年11月には北海道拓殖銀行と山一証券が経営破綻。「護送船団方式」「一行たりともつぶさない」と謳われた大蔵省の金融行政は行き詰まっていた。ときの橋本龍太郎政権下、「金融ビッグバン」が進行する中にあって、「日本発の世界金融恐慌」の可能性まで囁かれる始末であった。

さらに悪いことに、相次ぐ金融機関破綻の直後の1998年1月には大蔵省の過剰接待問題が発覚する。世にいう「ノーパンしゃぶしゃぶ」事件である。偉い人たちの「赤面モノ」スキャンダルが浮上して、三塚博大蔵大臣は引責辞任。こんな状態で、いったい誰が日本の金融システムを守ってくれるのか。リーダーシップの空白が事態をさらに深刻なものにしていた。

そして過剰接待事件は、日本銀行にも飛び火する。前述したホテルオークラ会合前日の3月11日、東京地検は日本銀行営業局の証券課長を逮捕していた。長い歴史の中で初めて「お縄付き」を出したことで、日本銀行の松下康雄総裁も辞任は秒読みという情勢であった。

翌13日は金曜日であった。当時の筆者は調査部所属だったが、ふと思いついて秘書室に行って、速水担当秘書のNさんをつかまえた。

「次の日銀総裁、速水さんになるんじゃないでしょうか」
「実は俺も同じことを考えていたんだよ」

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