福井駅、災禍を乗り越えた「不死鳥の街」の玄関口 空襲と地震、水害連続、鉄道開業時も災害が影響
福井市の私鉄といえば、京福のほかに福井鉄道を忘れるわけにはいかない。同鉄道は軌道と鉄道が混在する路線として知られ、多くの区間で北陸本線と並行している。
前身である福武電気鉄道(現・福井鉄道福武線)は1924年に部分開業。国鉄の幹線と競合する路線のため、出願の時点で政府から却下されることが濃厚だったが、鯖江に所在する陸軍歩兵第36連隊が北陸本線の鯖江駅から離れており、福武電鉄は兵員輸送を理由に許可された。その後延伸を繰り返しながら、1933年には福井駅前に線路が到達した。
福井駅の開業が1896年で、京福電鉄(越前電鉄)と福井鉄道(福武電鉄)が福井駅へ乗り入れたのは、それぞれ1929年と1933年。当時の福井駅の重要性が高くなかったことが、両私鉄の乗り入れが遅かった点からもうかがえる。
その理由は、福井市の中心市街地が長らく駅前ではなく、福井鉄道の軌道が通っている大通り、フェニックス通りより西側だったことによる。それでも福井駅が開業したことにより、少しずつ市街地の中心軸が駅側へと寄っていった。
こうした事態に危機感を覚えた地元住民たちにより、福井駅から西側へと電気鉄道を走らせる計画が立ち上がる。これは1919年から計画が進められていた加越電鉄の市街線を踏襲した計画で、福武電鉄が開業したことによって計画は環状線へと発展していった。
環状線計画は地元財界人が積極的に推進したものの、市長の交代や昭和初期に立て続けに恐慌が発生するなどして未完に終わった。だが、それから100年近くの歳月が流れた2016年に一応の実現を見ることになった。同年、福井鉄道とえちぜん鉄道は田原町駅を介して相互乗り入れを開始した。両社の線路は福井駅を取り囲むように敷設されている。厳密には環状線とは言いがたいが、断続的に議論されていた環状線に近い形になっているといえるだろう。
戦災復興直後に大地震が
終戦間近となる1945年7月、福井市内には焼夷弾が10万発以上も投下される空襲に見舞われた。これは後に福井空襲と呼ばれ、市街地損壊率は84.8%にも及んだ。
戦後、福井市は都市計画をゼロから始めなければならなかった。市は1947年に復興記念祭を福井駅前などで開催。記念祭により、市民は焼け野原から立ち上がる決意を強くしたが、翌年には福井地震が発生し、市内は再び壊滅状態に陥った。
福井地震は災害救助法が初適用された大規模災害となり、県外から多くの救援部隊が駆けつけている。とくに被害の少なかった京都・大阪方面からの救援や物資輸送が期待されたが、九頭竜川に架かる北陸本線の橋梁が地震によって倒壊。鉄道は機能不全に陥り、物資輸送は困難を極めた。さらに、地震により九頭竜川の堤防が崩壊。1カ月後には豪雨が襲い、九頭竜川が氾濫する水害も発生した。
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