家康の父と祖父も「どうする」と悩んだ人生だった 波瀾万丈な松平一族の歴史を徹底解説する

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松平家譜代の重臣に阿部大蔵(定吉)という者がいた。大蔵は子の弥七郎に対し「松平信定と懇意であったことから、内通を疑われている」と告げる。

12月5日の夜、守山の陣中で突如、清康の馬が暴れ出し、兵士たちも騒ぎ出す。それを聞いた弥七郎は、清康が父を殺害するために動き出したと誤解。清康の背後に迫ると、これを斬り殺してしまうのであった。

清康は享年25。弥七郎は、その場で植村新六郎により成敗される。総大将の突然の死に、松平軍は動揺。三河国に退却していく。これを「守山崩れ」という。清康の死によって、安城松平家の地位は低下し、三河国は混迷を極めることになる。 

清康の子には、千松丸(松平広忠。元康の父)がいたが、13歳の少年であった。守山崩れの直後、松平信定が岡崎城に入る。信定の奉行人の中には、清康の旧臣4人もいるので、信定の岡崎入城には、清康旧臣の意向もあったと考えられる。安城松平家、岡崎松平家の融合は、信定の手によって果たされることになった。

千松丸を連れて逃亡する

だが、信定は天文6年(1537)頃に岡崎城主の地位を清康の弟・信孝に譲っている。清康を殺害した弥七郎の父・阿部大蔵は、千松丸を連れて逃亡する。

主殺しの責任追及から逃れる意味もあったであろう。大蔵らは伊勢国(三重県北東部)や尾張国篠島(愛知県南知多町)に逃れたとする説がある。その後、彼らは遠江国に入り、さらに三河国へ移り(1536年)、吉良持広(東条城主)を頼みにするのであった。

千松丸らは室(愛知県西尾市)に進軍するが、松平信定方の攻撃により、今橋(愛知県豊橋市)まで退却。最終的には、駿河国の今川義元を頼ることになる。

今川氏の後ろ盾があったこと、そして、松平譜代家臣の中にも千松丸の帰還を望む者がいたこともあって、天文6年(1537)6月1日、千松丸は岡崎城に帰還を果たす(信定とは和議が成立)。千松丸は、元服し、広忠を名乗った。吉良持広の「広」を拝領したのである。

困難なときに助勢してくれたことや、吉良が足利一門であることが理由であろうか。広忠は、天文10年(1541)頃、水野忠政(三河国刈谷城主)の娘・於大と結婚する。

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