家康の父と祖父も「どうする」と悩んだ人生だった 波瀾万丈な松平一族の歴史を徹底解説する

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清康は、三河国内の諸城を攻め、国内の大部分を領し、さらには尾張国(愛知県西部)にまで進出していく。

天文4年(1535)12月には、清康は1000人の軍勢を率いて、尾張国守山(名古屋市守山区)に陣をおいた。清康の尾張出兵については、動機がさまざま提示されている。守山に居館を設けていた叔父・信定を討とうとしたとの説や、尾張の織田信秀(信長の父)と戦おうとしたとの説、戦ではなく、織田との外交交渉に出向いたとの説まである。

尾張国も政情が不安定だった

さまざまな説があるが、今回は兵を率いての出陣という説をとることにしよう。「守山崩れ」(後述)の説明がつかなくなるからだ。

当時の織田氏の宗家当主は、織田達通(尾張清洲城が居城)。その達通に、織田信秀や織田藤左衛門尉が仕えていたわけだが、信秀と藤左衛門尉の間で戦いが起こることもあり、尾張国内も政情が不安定だった。

織田家は、美濃国(岐阜県南部)の斎藤氏とも対立し、苦慮していた。兵を出した清康は、その間隙を衝いたのだ。守山城に籠もる織田信光(信秀の弟)を清康は攻めるつもりだったのだろう。

ちなみに、清康の叔父・信定はこの出陣には従っていない。三河国上野城(愛知県豊田市)に籠もったままだったという。なぜか? 信定の妻は織田信秀の姉妹であったとされるので、守山攻めには参加しなかったのだとも考えられている。

信定は守山攻めに反対したはずだ。その一方で松平信定が織田信秀と連携していたということは、清康は信秀と対立していた織田藤左衛門尉と繫がりを有していた可能性が高い。

藤左衛門尉からの出兵要請があったので、清康は兵を守山に出したのではないか。織田信秀の勢力を削ぐことは、イコール叔父・信定の力を弱めることに繋がるとの清康の想いもあったかもしれない。

しかし、清康は守山の陣にて命を散らすことになる。敵と戦っての討死ではなく、味方に殺害されてしまうのだ。

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