池袋へ乗り入れるもう1本の大手私鉄路線である、西武池袋線の前身は武蔵野鉄道といい、東上鉄道乗り入れの翌年、1915年4月15日に池袋―飯能間を開業させた。この鉄道も計画当初は池袋乗り入れは考えておらず、起点を巣鴨とする予定であった。山手線沿線はまだ東京市に編入されていない郡部であったが、ただ、ここでも東京市の横やりが入り、起点を池袋駅にせざるを得なくなったと思われる。
現在の西武池袋線の線形を見ても、椎名町を出た池袋行きは、目白―池袋間の、むしろ目白寄りのところで山手線をまたぎ越し、またもや急カーブを切って山手線に沿うように池袋駅の東側に入る。
曲がらずにそのまま直進すれば、鬼子母神や護国寺の北側、大塚辻町を通って、そのまま巣鴨へ到達できそうな線形だ。東武東上線と同じく、最初は池袋は眼中になかったところ、やはり何かの「力」が働いて、急な計画変更を余儀なくされたとの事情が感じられる。
また、巣鴨乗り入れの予定ルートは、変更前の目白分岐の豊島線のルートに類似している。このあたりのいきさつは、古すぎて確証は得られないかもしれないが、想像してみると楽しい。
乗換駅として大発展
そして池袋の発展は、東上鉄道、武蔵野鉄道の乗り入れにより始まった。
すでに1909年には上野―池袋―新宿―品川―烏森(現在の新橋)間と、池袋―赤羽間で電車運転が始まっており、当時の東京都心方面への利便性は高まっていた。
そこへ川越や所沢・飯能方面からの客が池袋へ流入。乗換駅として繁華街が次第に形成されるようになったのだ。また豊島師範学校(現在の東京学芸大学)や立教大学が西口側に開校し、文教地区としても発展した。
1923年には関東大震災により、郊外への移転が急速に加速。池袋駅周辺の人口も大幅に増えた。1935年には池袋初のデパートである「菊屋デパート」が東口側に開店。1939年には都電も池袋駅に乗り入れた。
戦災で池袋は大きな被害を受けたが、戦後、1954年1月20日に営団地下鉄(当時)丸ノ内線の池袋―御茶ノ水間が開業。当初、池袋は仮駅であったが、山手線の慢性的な混雑の緩和には力を発揮し、同時に池袋は、戦後復興を経て、その後の本格的な繁華街としての発展を見る。
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