「えっ!」
二美子にビッグチャンスが訪れた。ワンピースの女がすでにトイレに行ったかどうかはさておき、房木が帰ってくれるなら、ひとまずライバルはいなくなる。
ワンピースの女が今日はトイレに行かないかもしれないという高竹の発言に対し、房木はあっさり「そうかもしれません」と認めはしたが、あくまで「かもしれない」である。房木が「でも、とりあえず待ってみます」と答える可能性は十分考えられる。二美子は自分なら間違いなく「待つ」だろうと、期待しすぎないように房木の答えに全神経を集中させた。まるで全身が耳になったかと思うほどに。
「そうですね」
すると、房木はワンピースの女に視線を向けると、少し考えてから、
「そうですね」
と、答えた。あまりにあっさりした返事だったので、二美子にとって拍子抜けではあったが、それでもテンションは上がり、心臓がバクバクと脈打つのを感じた。
「じゃ、それ飲み終わったら」
高竹はまだ半分ほどコーヒーの残っているカップに目を移したが、房木はもう帰る事で頭がいっぱいなのだろう、
「大丈夫です。もう冷めちゃったんで……」
と、言うと不器用にテーブルの上の雑誌、メモ用紙、鉛筆、封筒などを片づけ、立ち上がり、土木作業員がよく着ている襟にボアの付いたジャンパーをはおりながら、レジに向かった。
いつの間にか、数がキッチンから戻ってきていて、房木が手渡す伝票を受け取った。
「いくらですか?」
房木が言うと、数は旧型の手打ちのレジにガチャガチャと金額を打ち込んだ。その間、房木はセカンドバッグの中、胸ポケット、お尻のポケットなどを探っていたが、
「あれ? 財布が……」
と、つぶやいた。どうやら財布を忘れてきたのだろう。何度も同じ場所をくり返し探していたが財布は見つからず、今にも泣きそうな顔になっていた。
すると、不意に高竹が房木の前に財布を差し出した。
「……はい」
その財布は使い込まれた男物の革の財布だった。二つ折りで、たくさんのレシートらしきもので厚ぼったくなっている。房木はしばらく目の前に差し出された財布をじっと見つめていた。かといって、高竹が差し出した財布を受け取る事に躊躇している風でもない。ただ、ぼんやり見つめているだけである。
やがて、差し出された財布を何も言わずに受け取ると、
「……いくらですか?」
と、手慣れた感じで財布の小銭を探りはじめた。高竹はその間何も言わず、ただ房木の後ろで支払いが終わるのを見守っていた。
「三八〇円です」
房木は一枚の硬貨を取り出して、数に差し出した。
「五〇〇円お預かりします」
数は房木からお金を受け取り、レジを打ち、おつりをカシャカシャと摘み上げ、
「一二〇円のお返しです」
と、ていねいな手つきで房木の手のひらにおつりとレシートとを一緒に渡した。
「ごちそうさま……」
房木はそう言うと、財布におつりをていねいに収め、自分のバッグにしまい込み、高竹がいた事も忘れてしまったかのように、そそくさと出て行ってしまった。
カランコロン。
高竹も、そんな態度に顔色ひとつ変えず、ただ「ありがと」とだけ数に言うと、房木の後を追うように出て行ってしまった。
カランコロン。
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