東京駅から30分、日本最小「蕨市」の知られざる魅力 かつては城もあった!?「蕨」が見せる多面性

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住宅団地の建設にあたったのは「日本住宅営団」という団体だ。団体の前身、後身ともに存在しないが、人的な流れとしては同潤会と日本住宅公団の間に存在していた団体である。

1941(昭和16)年に設立され、同潤会や日本住宅公団と同じく、良質な住宅環境作りに力を注いでいた。そして標準設計を行い、モデルとなる住宅団地として蕨にある「塩漬け」の土地の一部に約1500戸の住宅を建設する計画となっていた。

実際に建設されたのは東西約600m、南北最短約320mの5角形の土地の中で1942(昭和17)年に入居を開始し、最終的に880戸が建設された。完成したまちには「三和町」と名前がつけられ、現在もまちの区割りにその名残を残している。

第二次世界大戦後は1950年代から1960年代にかけて大きく人口を伸ばし、20年で4万人以上が増加し、人口が7万人に到達した。その後は市内の土地をほぼ開発したこともあり、人口の伸びは鈍化。その中でも工場用地の開発や、市内の大規模工場のソフトウェアセンター化など工業的な変化がありながらも現在に至っている。

川口市・鳩ヶ谷市・戸田市・蕨市の合併が模索された

人口をはじめとした市内の歴史はざっと追ってきたが、そもそも小さい市域がなぜ現在まで残っているのだろうか。

それは、1889(明治22)年に蕨宿と塚越村が合併してから現在まで合併を行わなかったからにほかならない。明治時代には小さな自治体は多くあったが、昭和の大合併や平成の大合併をはじめとした合併で消滅していった。

蕨も昭和の大合併と平成の大合併では合併話が持ち上がっている。まず、昭和の大合併では現在の戸田市にあたる旧戸田町、旧美笹村との3町(当時は蕨も「蕨町」)合併が模索された。しかし、旧戸田町の反発などから蕨町(当時)が積極的に動けず、1959(昭和34)年に蕨町は単独で市制を施行した。

平成の大合併では、川口市・鳩ヶ谷市・戸田市・蕨市での4市合併が模索され、合併すれば70万人都市誕生とも目されていた。はじめのうちは合併賛成派も多く、順調に各自治体の合併特別委員会設置まで進んだ。

しかし、まず戸田市が合併から離脱した。4市の中で唯一JR埼京線を東京へのメインルートとする戸田市は、若い世代が多く、財政力があった。そのため合併のメリットが薄く、市議補選で合併反対派が当選すると、一気に合併に慎重な立場となり、2002年8月に市長が合併は行わないことを宣言した。

そのため残った3市で合併を進めるという方向で進むこととなった。蕨市については住宅地としての発展も早く、住民の高齢化が進んでいることで合併推進の立場がとられた。しかしながら、合併反対派も次第に増え、2003年6月の市長・市議ダブル選挙で合併が論点となった。また、住民投票も繰り返し要求された。

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