東京駅から30分、日本最小「蕨市」の知られざる魅力 かつては城もあった!?「蕨」が見せる多面性

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その後、江戸時代になるといわゆる「五街道」が整備され、そのうち中山道の2番目の宿場として蕨宿がおかれた。これが本格的な蕨のまちの起こりとなる。

蕨宿(筆者撮影)

江戸時代の中山道は板橋宿から戸田で入間川(のちの荒川)を越え、蕨宿、浦和宿、大宮宿と宿場が続いた。現在の都市からイメージすると、蕨宿は浦和宿や大宮宿に比べると小さかったのではないかと思われそうだが、そんなことはない。

商業の規模でいえば浦和宿に比べれば大きかったという記録もある。当時浦和宿と大宮宿は同じような規模感であったことを考えれば、蕨も大宮や浦和に劣らない宿場だったといえる。

当初、鉄道は通過していた

そして、1883(明治16)年に日本鉄道が上野~熊谷駅間に鉄道を開業させる。現在の蕨市内も通っていたが、当初は駅が設置されなかった。その後、請願運動により、1893(明治26)年に蕨駅が設置される。

鉄道開業により影響を受けたのは蕨宿で商売や物流を営んでいた人々で、江戸時代に海外から輸入された紡績機械を購入し、女工を雇って紡績業をはじめた。当時の資料では蕨駅開業直後に1000人近く人口が増え、その大半は女工だったとされている。

明治時代から大正時代にかけて蕨周辺で生産された織物は木綿と色糸を駆使した高品質なもので、「双子織」の名前で、今で言うところのブランド物とされた。

大正時代はじめごろから、東京都心部の大気汚染などの理由から近郊の郊外に住宅を求める人々が増え始め、蕨の人口は徐々に増えていった。また、蕨の場合は工場用地としての需要もあり、1896(明治29)年には現在の蕨市内ではないが、蕨駅近くに日本車輌の蕨工場が開業した。

人口が増えると、蕨駅の利用者も増え、沿線では長距離利用者と短中距離利用者を分け、短中距離利用者向けに電車を走らせるよう要望が行われた。そして関東大震災を挟んで1932(昭和7)年、現在の京浜東北線にあたる電車線が開業。運行頻度、利用者共に大きく増えた。

このころの蕨駅はホワイトカラーよりもブルーカラーの利用客が多かったという。こうして蕨は工場用地需要と住宅需要の両輪で人口を伸ばしていった。

なかでも代表的な住宅地は市の南部にある「三和町(みつわちょう)」(現在の南町2丁目、3丁目の一部)だ。

三和町(筆者撮影)

この場所はもともと薬品会社の進出が計画されていたが、薬品会社側でさまざまなトラブルが発生したことで工場進出話は打ち切りとなったため、「塩漬け」状態になっていた。

しかし、第2次世界大戦が始まると、軍需工場が大きくなり、工場で働く人々の住宅需要が高まった。そのため、「塩漬け」の土地の一部を住宅団地として利用することになった。

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