まちの歴史は中世に遡る。14世紀、甲斐源氏の流れをくむ南部氏が現在の八戸市に移り住み、根城(ねじょう)を建て、後に八戸氏を名乗った。
江戸時代初期は盛岡南部氏の領地だった。しかし1664(寛文4)年、世継ぎの事情で八戸藩が盛岡藩から独立し、2万石の城下町・八戸が誕生した。八戸藩領は現在の八戸市周辺から岩手県北に広がり、今も県境を越えた意識とつながりが残る。
また、八戸市が事務局を務める「北奥羽開発促進協議会」(1968年発足)」は青森・岩手・秋田3県の6市14町4村にまたがり、“隠れ広域自治体”の趣がある。拠点機能は県庁所在地に劣らない。三菱製紙などの企業が製造拠点を置く新産業都市であり、全国有数の水揚げを誇る「水産のまち」でもある。
「尻内駅」が八戸駅に改称
八戸駅は中心市街地から約6km西方の内陸に位置する。1891年に開業した。当時の駅名は、駅舎が建つ地域の名を取った「尻内」(しりうち)だった。1894年に尻内駅から中心市街地へ、そして太平洋岸へ延びる八戸線が開業し、八戸城跡の最寄り駅が「八戸」と名付けられた。
時代が昭和に飛んで1971年、尻内駅の名が八戸駅に改められた。前後して、それまでの八戸駅は「本八戸(ほんはちのへ)駅」に改称された。その理由は地元でも諸説ある。市史などに記述はないが、大きな要因は、北東北3県を揺るがしていた東北新幹線の建設構想だった……と記憶をよみがえらせる人もいる。
駅名が改まったこの年、東北新幹線は盛岡までの工事が始まった。そして盛岡以北のルートとして「太平洋回り」と「日本海回り」の2案が浮上していた。前者は八戸市と青森県南部地方、岩手県が、後者は青森県弘前市と津軽地方、秋田県が連携して互いに優位性を主張し、譲らなかった。
「八戸の顔」にふさわしい新幹線駅の名は――。誘致運動の過程で、そんな議論があったらしい。
ルート問題は1973年の整備計画決定時、現行の「太平洋回り」で決着した。しかし、その年、日本の高度経済成長はオイルショックなどによって終わりを告げた。さらに国鉄の財政悪化に伴い、着工は先へ先へと延び続けた。新幹線開業に伴う改築を想定していた八戸駅は、小さな駅舎のまま、取り残された。
1982年6月、東北新幹線・大宮―盛岡間が開業。八戸市民はそれからさらに20年、新幹線延伸を待たねばならなかった。
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